て、先生のお嬢様か何かに思われて、それを正妻に迎えるまでは、色事などをしてはならないのである。それから天下に名の聞えた名士になれば、東坡《とうば》なんぞのように、芸者にも大事にせられるだろう。その時は絹のハンケチに詩でも書いて遣るのである。
 裔一の処へ行くうちに、裔一が父親に連れられて出て、いない事がある。そういう時に好く、長い髪を項《うなじ》まで分けた榛野に出くわす。榛野は、僕が外から裔一を呼ぶと、僕が這入らないうちに、内から障子を開けて出て、帰ってしまう。裔一の母親があとから送って出て、僕にあいそを言う。
 裔一の母親は継母である。ある時裔一と一しょに晴雪楼詩鈔を読んでいると、真間《まま》の手古奈《てこな》の事を詠じた詩があった。僕は、ふいと思い出して、「君のお母様は本当のでないそうだが、窘《いじ》めはしないか」と問うた。「いいや、窘めはしない」と云ったが、彼は母親の事を話すのを嫌うようであった。
 或日裔一の内へ往った。八月の晴れた日の午後二時頃でもあったろうか。お長屋には、どれにも竹垣を結い廻《めぐ》らした小庭が附いている。尾藤の内の庭には、縁日で買って来たような植木が四五本次第もなく植えてある。日が砂地にかっかっと照っている。御殿のお庭の植込の茂みでやかましい程鳴く蝉の声が聞える。障子をしめた尾藤の内はひっそりしている。僕は竹垣の間の小さい柴折戸《しおりど》を開けて、いつものように声を掛けた。
「裔一君」
 返事をしない。
「裔一君はいませんか」
 障子が開く。例の髪を項まで分けた榛野が出る。色の白い、撫肩《なでがた》の、背の高い男で、純然たる東京詞を遣うのである。
「裔一君は留守だ。ちっと僕の処へも遊びに来給え」
 こう云って長屋隣の内へ帰って行く。鳴海絞《なるみしぼり》の浴衣《ゆかた》の背後《うしろ》には、背中一ぱいある、派手な模様がある。尾藤の奥さんが閾際《しきいぎわ》にいざり出る。水浅葱《みずあさぎ》の手がらを掛けた丸髷の鬢《びん》を両手でいじりながら、僕に声を掛ける。奥さんは東京へ出たばかりだそうだが、これも純然たる東京詞である。
「あら。金井さんですか。まあお上んなさいよ」
「はい。しかし裔一君がいませんのなら」
「お父さんが釣に行くというので、附いて行ってしまいましたの、裔一がいなくたって好いではございませんか。まあ、ここへお掛なさいよ」
「はい」
 僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂がする。僕は少し脇へ退《の》いた。奥さんは何故だか笑った。
「好くあなたは裔一のような子と遊んでおやんなさるのね。あんなぶあいそうな子ってありゃしません」
 奥さんは目も鼻も口も馬鹿に大きい人である。そして口が四角なように僕は感じた。
「僕は裔一君が大好です」
「わたくしはお嫌」
 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を覗《のぞ》き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は蒼《あお》くなったであろう。
「僕は又来ます」
「あら。好いじゃありませんか」
 僕は慌《あわ》てたように起って、三つ四つお辞儀をして駈け出した。御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞《いせき》を踰《こ》して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えている砂地に、植込の高い木が、少し西へいざった影を落している。僕はそこまで駈けて行って、仰向に砂の上に寝転んだ。すぐ上の処に、凌霄《のうぜん》の燃えるような花が簇々《むらむら》と咲いている。蝉が盛んに鳴く。その外には何の音もしない。Pan の神はまだ目を醒《さ》まさない時刻である。僕はいろいろな想像をした。
 それからは、僕は裔一と話をしても、裔一の母親の事は口に出さなかった。

      *

 十五になった。
 去年の暮の試験に大|淘汰《とうた》があって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治られたのである。
 逸見も退学した。しかしこれはつい昨今急激な軟化をして、着物の袖を長くし、袴の裾を長くし、天を指していた椶櫚《しゅろ》のような髪の毛に香油を塗っていたのであった。
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友が出来た。
 古賀は顴骨《かんこつ》の張った、四角な、赭《あか》ら顔の大男である。安達《あだち》という美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々《そうそう》たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の※[#「※」は「きへんに雨に
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