な事をだらだらと書くのは、僕の性欲的生活に何の関係もないようだが、実はそうでない。これが重大な関係を有している。
 僕は古賀と次第に心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。そこで三角同盟が成立した。
 児島は生息子《きむすこ》である。彼の性欲的生活は零《ゼロ》である。
 古賀は不断酒を飲んでぐうぐう寝てしまう。しかし月に一度位|荒日《あれび》がある。そういう日には、己《おれ》は今夜は暴れるから、君はおとなしくして寝ろと云い置いて、廊下を踏み鳴らして出て行く。誰かの部屋の外から声を掛けるのに、戸を締めて寝ていると、拳骨《げんこつ》で戸を打ち破ることもある。下の級の安達という美少年の処なぞへ這入り込むのは、そういう晩であろう。荒日には外泊することもある。翌日帰って、しおしおとして、昨日は獣になったと云って悔んでいる。
 児島の性欲の獣は眠っている。古賀の獣は縛ってあるが、おりおり縛《いましめ》を解いて暴れるのである。しかし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとしている如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分つことになったのである。
 古賀と児島と僕との三人は、寄宿舎全体を白眼に見ている。暇さえあれば三人集まる。平生性欲の獣を放し飼にしている生徒は、この triumviri の前では寸毫《すんごう》も仮借せられない。中にも、土曜日の午後に白足袋を穿《は》いて外出するような連中は、人間ではないように言われる。僕の性欲的生活が繰延になったのは、全くこの三角同盟のお陰である。後になって考えて見れば、若《も》しこの同盟に古賀がいなかったら、この同盟は陰気な、貧血性な物になったのかも知れない。幸に荒日を持っている古賀が加わっていたので、互に制裁を加えている中にも、活気を失わないでいることを得たのであろう。
 或る土曜の事である。三人で吉原を見に行こうということになる。古賀が案内に立つ。三人共小倉袴に紺足袋で、朴歯《ほおば》の下駄をがらつかせて出る。上野の山から根岸を抜けて、通新町を右へ折れる。お歯黒|溝《どぶ》の側を大門《おおもん》に廻る。吉原を縦横に濶歩《かっぽ》する。軟派の生徒で出くわした奴は災難だ。白足袋がこそこそと横町に曲るのを見送って、三人一度にどっと笑うのである。僕は分れて、今戸《いまど》の渡《わたし》を向島へ渡った。

 同じ歳の夏休は、やはり去年どおりに、向島の親の家で暮らした。その頃はまだ、書生が暑中に温泉や海浜へ行くということはなかった。親を帰省するのが精々であった。僕のような、判任官の子なんぞは、親の処に帰って遊んでいるより上の愉快を想像することは出来なかったのである。
 相変らず尾藤裔一と遊ぶ。裔一の母親はもういない。悪い噂《うわさ》が立ったので、榛野は免職になって国へ帰る。尾藤の母親も国の里方へ返されたのである。
 裔一と漢文の作り競《くら》をする。それが困《こう》じて、是非本当の漢文の先生に就いて遣《や》って見たいということになる。
 その頃向島に文淵《ぶんえん》先生という方がおられた。二町程の田圃を隔てて隅田川の土手を望む処に宅を構えておられる。二階建の母屋に、庭の池に臨んだ離座敷の書斎がある。土蔵には唐本が一ぱい這入っていて、書生が一抱ずつ抱えては出入《だしいれ》をする。先生は年が四十二三でもあろうか。三十位の奥さんにお嬢さんの可哀いのが二三人あって、母屋《おもや》に住んでおられる。先生は渡廊下で続いている書斎におられる。お役は編修官。月給は百円。手車で出勤せられる。僕のお父様が羨ましがって、あれが清福というものじゃと云うておられた。その頃は百円の月給で清福を得られたのである。
 僕はお父様に頼んで貰って、文淵先生の内へ漢文を直して貰いに行くことにした。書生が先生の書斎に案内する。どんな長い物を書いて持って行っても、先生は「どれ」と云って受け取る。朱筆を把《と》る。片端から句読《くとう》を切る。句読を切りながら直して行く。読んでしまうのと直してしまうのと同時である。それでも字眼《じがん》なぞがあると、標《しるし》を附けて行かれるから、照応を打ち壊されることなぞはめったに無い。度々行くうちに、十六七の島田|髷《まげ》が先生のお給仕をしているのに出くわした。帰ってからお母様に、今日は先生の内の一番大きいお嬢さんを見たと話したら、それはお召使だと仰ゃった。お召使というには特別な意味があったのである。
 或日先生の机の下から唐本が覗いているのを見ると、金瓶梅《きんぺいばい》であった。僕は馬琴の金瓶梅しか読んだことはないが、唐本の金瓶梅が大いに違っているということを知っていた。そして先生なかなか油断がならないと思った。

      *

 同じ歳の秋であった。古賀
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