て彼の飽くまで冷静なる眼光は、蛇の蛙《かわず》を覗《うかが》うように女を覗っていて、巧に乗ずべき機会に乗ずるのである。だから彼の醜を以てして、決して女に不自由をしない。その言うところを聞けば、女は金で自由になる物だ。女に好かれるには及ばないと云っている。
 鰐口は女を馬鹿にしているばかりはでない。あらゆる物を馬鹿にしている。彼の目中には神聖なるものが絶待的に無い。折々僕のお父様が寄宿舎に尋ねて来られる。お父様が、倅《せがれ》は子供同様であるから頼むと挨拶をなさると、鰐口は只はあはあと云って取り合わない。そして黙ってお父様の僕に訓戒をして下さるのを聞いていて、跡で声《こわ》いろを遣《つか》う。
「精出して勉強しんされえ。鰐口君でもどなたでも、長者の云いんさることは、聴かにゃあ行けんぜや。若し腑《ふ》に落ちんことがあるなら、どういうわけでそう為《せ》にゃならんのか、分りませんちゅうて、教えて貰いんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待っとるから、来《き》んされえ。あはははは」
 それからはお父様の事を「来んされえ」と云う。今日あたりは又来んされえの来る頃だ。又|最中《もなか》にありつけるだろうなんぞと云う。人の親を思う情だからって何だからって、いたわってくれるということはない。「あの来んされえが君のおっかさんと孳尾《つる》んで君を拵《こしら》えたのだ。あはははは」などと云う。お国の木戸にいたお爺さんと択ぶことなしである。
 鰐口は講堂での出来は中くらいである。独逸人の教師は、答の出来ない生徒を塗板の前へ直立させて置く例になっていた。或るとき鰐口が答が出来ないので、教師がそこに立っていろと云った。鰐口は塗板に背中を持たせて空を嘯《うそぶ》いた。塗板はがたりと鳴った。教師は火のようになって怒《おこ》って、とうとう幹事に言って鰐口を禁足にした。しかしそれからは教師も鰐口を憚《はばか》っていた。
 教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。
「おれがおらんと、又|穴《けつ》を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
 僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐《ふところ》に隠していた。
 二月頃に久しく天気が続いた。毎日学課が済むと、埴生と運動場へ出て遊ぶ。外の生徒は二人が盛砂の中で角力《すもう》を取るのを見て、まるで狗児《ちんころ》のようだと云って冷かしていた。やあ、黒と白が喧嘩《けんか》をしている、白、負けるななどと声を掛けて通るものもあった。埴生と僕とはこんな風にして遊んでも、別に話はしない。僕は貸本をむやみに読んで、子供らしい空想の世界に住している。埴生は教場の外ではじっとしていない性《たち》なので、本なぞは読まない。一しょに遊ぶと云えば、角力を取る位のものであった。
 或る寒さの強い日の事である。僕は埴生と運動場へ行って、今日は寒いから駆競《かけくら》にしようというので、駈競をして遊んで帰って見ると、鰐口の処へ、同級の生徒が二三人寄って相談をしている。間食の相談である。大抵間食は弾豆か焼芋で、生徒は醵金《きょきん》をして、小使に二銭の使賃を遣って、買って来させるのである。今日はいつもと違って、大いに奢《おご》るというので、盲汁《めくらじる》ということをするのだそうだ。てんでに出て何か買って来て、それを一しょに鍋に叩き込んで食うのである。一人の男が僕の方を見て、金井はどうしようと云った。鰐口は僕を横目に見て、こう云った。
「芋を買う時とは違う。小僧なんぞは仲間に這入《はい》らなくても好い」
 僕は傍《わき》を向いて聞かない振をしていた。誰を仲間に入れるとか入れないとか云って、暫《しばら》く相談していたが、程なく皆出て行った。
 鰐口の性質は平生《へいぜい》知っている。彼は権威に屈服しない。人と苟《いやしく》も合うという事がない。そこまでは好い。しかし彼が何物をも神聖と認めない為めに、傍《はた》のものが苦痛を感ずることがある。その頃僕は彼の性質を刻薄だと思っていた。それには、彼が漢学の素養があって、いつも机の上に韓非子《かんぴし》を置いていたのも、与《あずか》って力があったのだろう。今思えば刻薄という評は黒星に中《あた》っていない。彼は cynic なのである。僕は後に Theodor Vischer の書いた Cynismus を読んでいる間、始終鰐口の事を思って読んでいた。Cynic という語は希臘の kyon 犬という語から出ている。犬学などという
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