ら大分|益《やく》に立った。
 僕は寄宿舎ずまいになった。生徒は十六七位なのが極若いので、多くは二十代である。服装は殆《ほとん》ど皆小倉の袴《はかま》に紺足袋である。袖は肩の辺までたくし上げていないと、惰弱だといわれる。
 寄宿舎には貸本屋の出入が許してある。僕は貸本屋の常得意であった。馬琴《ばきん》を読む。京伝を読む。人が春水を借りて読んでいるので、又借をして読むこともある。自分が梅暦《うめごよみ》の丹治郎のようであって、お蝶のような娘に慕われたら、愉快だろうというような心持が、始てこの頃|萌《きざ》した。それと同時に、同じ小倉袴紺足袋の仲間にも、色の白い目鼻立の好い生徒があるので、自分の醜男子なることを知って、所詮《しょせん》女には好かれないだろうと思った。この頃から後は、この考が永遠に僕の意識の底に潜伏していて、僕に十分の得意ということを感ぜさせない。そこへ年齢の不足ということが加勢して、何事をするにも、友達に暴力で圧せられるので、僕は陽に屈服して陰に反抗するという態度になった。兵家 Clausewitz は受動的抗抵を弱国の応《まさ》に取るべき手段だと云っている。僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。
 性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の可笑《おか》しな画を看《み》る連中である。その頃の貸本屋は本を竪《たて》に高く積み上げて、笈《おいずる》のようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって抽斗《ひきだし》が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。三五郎という前髪と、その兄分の鉢鬢奴《ばちびんやっこ》との間の恋の歴史であって、嫉妬《しっと》がある。鞘当《さやあて》がある。末段には二人が相踵《あいつ》いで戦死することになっていたかと思う。これにも挿画《さしえ》があるが、左程見苦しい処はかいてないのである。
 軟派は数に於いては優勢であった。何故というに、硬派は九州人を中心としている。その頃の予備門には鹿児島の人は少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、悉《ことごと》く軟派である。
 その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少|影護《うしろめた》い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を穿《は》いたり何かする。
 そしてその白足袋の足はどこへ向くか。芝、浅草の楊弓店、根津、吉原、品川などの悪所である。不断紺足袋で外出しても、軟派は好く町湯に行ったものだ。湯屋には硬派だって行くことがないではないが、行っても二階へは登らない。軟派は二階を当《あて》にして行く。二階には必ず女がいた。その頃の書生には、こういう湯屋の女と夫婦約束をした人もあった。下宿屋の娘なんぞよりは、無論一層下った貨物《しろもの》なのである。
 僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生《はにゅう》庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
 学校に這入《はい》ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦《わにぐちゆずる》という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白|菊石《あばた》の顔が長くて、前にしゃくれた腮《あご》が尖《とが》っている。痩《や》せていて背が高い。若《も》しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
 幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ているらしい。さればとて普通の軟派でもない。軟派の連中は女に好かれようとする。鰐口は固《もと》より好かれようとしたとて好かれもすまいが、女を土苴《つちづと》の如くに視ている。女は彼の為に、只性欲に満足を与える器械に過ぎない。彼は機会のある毎にその欲を遂げる。そし
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