えば跳躍する。嫌だと思えば萎靡《いび》して振わないというのである。下女は耳を真赤にして聴いていた。僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。
 学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで可笑《おか》しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に上《のぼ》せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの瓦斯《ガス》を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
 教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。
 学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に乗って通って来る蔭小路《かげのこうじ》という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い頬っぺたがふっくりと膨《ふく》らんでいて、可哀らしい少年であった。その少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった弾豆《はじけまめ》、書生の羊羹《ようかん》といった焼芋などを食わせられた。但しその親切は初から少し粘《ねばり》があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。頬摩《ほおずり》をする。うるさくてたまらない。僕には Urning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入《はい》って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじゃない。さあ」
 僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪《えんお》と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
 こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
 隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳《おど》り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団|蒸《むし》にして懲《こら》して遣れ」
 手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳《は》ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛《ゆる》む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら敏捷《びんしょう》であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
 その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお父《とう》様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
 こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗《な》めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。

      *

 十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃《や》めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってか
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