を有している。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−16]麻は僕がその第二の意義に対して、何等の想像をも画《えが》き得るものとは認めていない。女も僕をば空気の如くに取り扱っている。しかし僕には少しの不平も起らない。僕はこの女は嫌であった。それだから物なんぞを言って貰いたくはなかった。
 ※[#「※」は「さんずいに日に工」、27−2]麻が楊弓を引いて見ないかと云ったが、僕は嫌だと云った。
 ※[#「※」は「さんずいに日に工」、27−3]麻は間もなく楊弓店を出た。それから猿若町《さるわかちょう》を通って、橋場の渡《わたし》を渡って、向島のお邸に帰った。
 同じ頃の事であった。家従達の仲間に、銀林と云う針医がいて、折々彼等の詰所に来て話していた。これはお上のお療治に来るので、お国ものではない。江戸児《えどっこ》である。家従は大抵三十代の男であるのに、この男は四十を越していた。僕は家従等に比べると、この男が余程賢いと思っていた。
 或る日銀林は銀座の方へ往くから、連れて行って遣ろうと云った。その日には用を済ませてから、銀林が京橋の側の寄席《よせ》に這入《はい》った。
 昼席《ひるせき》であるから、余り客が多くはない。上品に見えるのは娘を連れた町家のお上《かみ》さんなどで、その外多くは職人のような男であった。
 高座には話家が出て饒舌っている。徳三郎という息子が象棋《しょうぎ》をさしに出ていた。夜が更けて帰って、閉出《しめだし》を食った。近所の娘が一人やはり同じように閉出を食っている。娘は息子に話し掛ける。息子がおじの内へ往って留めて貰うより外はないと云うと、娘が一しょに連れて行ってくれろと頼む。息子は聴かずにずんずん行くが、娘は附いて来る。おじは通物《とおりもの》である。通物とは道義心の lax なる人物ということと見える。息子が情人を連れて来たものと速断する。息子が弁解するのを、恥かしいので言を左右に托《たく》しているのだと思う。息子に恋慕している娘は、物怪《もっけ》の幸と思っている。そこで二人はおじに二階へ追い上げられる。夜具は一人前しか無い。解いた帯を、縦に敷布団の真中に置いて、跡から書くので譬喩《ひゆ》が anachronism になるが、樺太《からふと》を両分したようにして、二人は寝る。さて一寐入して目が醒《さ》めて云々《しかじか》というのである。僕の耳には、まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
 今までしゃべっていた話家が、起《た》って腰を屈《かが》めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄《ばえ》も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得《かくとく》するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。

      *

 同じ年の十月頃、僕は本郷|壱岐坂《いきざか》にあった、独逸《ドイツ》語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
 向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東《あずま》先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
 東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に贅沢《ぜいたく》はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳《ほんやく》なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位|閨門《けいもん》のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
 僕は東先生の内にいる間、性慾上の刺戟《しげき》を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を手繰《たぐ》って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを点《つ》けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思
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