「お上さん。これを騙《だま》されて買って行く奴がまだありますか。はははは」
「それでもちょいちょい売れますよ。一向つまらない事が書いてあるのでございますが。おほほほ」
「どうでしょう。本当のを売ってくれませんかね」
「御笑談《ごじょうだん》を仰ゃいます。なかなか当節は警察がやかましゅうございまして」
帯封の本には、表紙に女の顔が書いてあって、その上に「笑い本」と大字で書いてある。これはその頃絵草紙屋にあっただまし物である。中には一口噺《ひとくちばなし》か何かを書いて、わざと秘密らしく帯封をして、かの可笑しな画を欲しがるものに売るのである。
僕は子供ではあったが、問答の意味をおおよそ解した。しかしその問答の意味よりは、※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−14]麻の自在に東京詞を使うのが、僕の注意を引いた。そして※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−15]麻は何故これ程東京詞が使えるのに、お屋敷では国詞を使うだろうかということを考えて見た。国もの同志で国詞を使うのは、固《もと》より当然である。しかし※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−17]麻が二枚の舌を使うのは、その為めばかりではないらしい。彼は上役の前で淳樸《じゅんぼく》を装うために国詞を使うのではあるまいか。僕はその頃からもうこんな事を考えた。僕はぼんやりしているかと思うと、又余り無邪気でない処のある子であった。
観音堂に登る。僕の物を知りたがる欲は、僕の目を、只真黒な格子の奥の、蝋燭《ろうそく》の光の覚束《おぼつか》ない辺に注がせる。蹲《しゃが》んで、体を鰕《えび》のように曲げて、何かぐずぐず云って祈っている爺さん婆あさん達の背後《うしろ》を、堂の東側へ折れて、おりおりかちゃかちゃという賽銭《さいせん》の音を聞き棄てて堂を降りる。
この辺には乞食が沢山いた。その間に、五色の沙《すな》で書画をかいて見せる男がある。少し広い処に、大勢の見物が輪を作って取り巻いているのは、居合ぬきである。※[#「※」は「さんずいに日に工」、25−7]麻と一しょに暫く立って見ていた。刀が段々に掛けてある。下の段になるだけ長いのである。色々な事を饒舌《しゃべ》っているが、なかなか抜かない。そのうち※[#「※」は「さんずいに日に工」、25−9]麻が、つと退《の》くから、何か分からずに附いて退いた。振り返って見れば、銭を集める男が、近処へ来ていたのであった。
楊弓店のある、狭い巷《こうじ》に出た。どの店にもお白いを附けた女のいるのを、僕は珍らしく思って見た。お父様はここへは連れて来なかったのである。僕はこの女達の顔に就いて、不思議な観察をした。彼等の顔は当前《あたりまえ》の人間の顔ではないのである。今まで見た、普通の女とは違って、皆一種の stereotype な顔をしている。僕の今の詞《ことば》を以て言えば、この女達の顔は凝結した表情を示しているのである。僕はその顔を見てこう思った。何故《なぜ》皆|揃《そろ》ってあんな顔をしているのであろう。子供に好い子をお為《し》というと、変な顔をする。この女達は、皆その子供のように、変な顔をしている。眉はなるたけ高く、甚だしきは髪の生際《はえぎわ》まで吊《つ》るし上げてある。目をなるたけ大きく※[#「※」は「浄のさんずいの代わりに目」、25−17]《みは》っている。物を言っても笑っても、鼻から上を動かさないようにしている。どうして言い合せたように、こんな顔をしているだろうと思った。僕には分からなかったが、これは売物の顔であった。これは prostitution の相貌であった。
女はやかましい声で客を呼ぶ「ちいと、旦那《だんな》」というのが尤《もっとも》多い。「ちょいと」とはっきり聞えるのもあるが、多くは「ちいと」と聞える。「紺足袋の旦那」なんぞと云う奴もある。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−4]麻は紺足袋を穿いていた。
「あら、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−6]麻さん」
一際鋭い呼声がした。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−7]麻はその店にはいって腰を掛けた。僕は呆《あき》れて立って見ていると、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−7]麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、鉄漿《かね》を剥《は》がした歯が見える。長い烟管《きせる》に烟草を吸い附けて、吸口を袖で拭いて、例の鼻から上を動かさずに、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−9]麻に出す。
「何故拭くのだ」
「だって失礼ですから」
「榛野でなくっては、拭かないのは飲まして貰えないのだね」
「あら、榛野さんにだっていつでも拭いて上げまさあ」
「そうかね。拭いて上げるかね」
こんな風な会話である。詞が二様の意義
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