訳語があるからは、犬的と云っても好いかも知れない。犬が穢《きたな》いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶《かな》わない。
鰐口は人に苦痛を覚えさせるのが常になっている。そこで人の苦痛を何とも思わない。刻薄な処はここから生じて来る。強者が弱者を見れば可笑しい。可笑しいと面白い。犬的な人は人の苦痛を面白がるようになる。
僕だって人が大勢集って煮食《にぐい》をするのを、ひとりぼんやりして見ているのは苦痛である。それを鰐口は知っていて、面白半分に仲間に入れないのである。
僕は皆が食う間外へ出ていようかと思った。しかし出れば逃げるようだ。自分の部屋であるのに、人に勝手な事をせられて逃げるのは残念だと思った。さればといって、口に唾の湧《わ》くのを呑み込んでいたら彼等に笑われるだろう。僕は外へ出て最中《もなか》を十銭買って来た。その頃は十銭最中を買うと、大袋に一ぱいあった。それを机の下に抛《ほう》り込んで置いて、ランプを附けて本を見ていた。
その中盲汁の仲間が段々帰って来る。炭に石油を打《ぶ》っ掛けて火をおこす。食堂へ鍋を取りに行く。醤油を盗みに行く。買って来た鰹節《かつおぶし》を掻く。汁が煮え立つ。てんでに買って来たものを出して、鍋に入れる。一品鍋に這入《はい》る毎に笑声が起る。もう煮えたという。まだ煮えないという。鍋の中では箸の白兵戦が始まる。酒はその頃|唐物店《とうものみせ》に売っていた gin というのである。黒い瓶《びん》の肩の怒ったのに這入っている焼酎《しょうちゅう》である。直段《ねだん》が安いそうであったから、定めて下等な酒であったろう。
皆が折々僕の方を見る。僕は澄まして、机の下から最中を一つずつ出して食っていた。
Gin が利いて来る。血が頭へ上る。話が下《しも》へ下《さが》って来る。盲汁の仲間には硬派もいれば軟派もいる。軟派の宮裏《みやうら》が硬派の逸見《へんみ》にこう云った。
「どうだい。逸見なんざあ、雪隠《せっちん》へ這入って下の方を覗いたら、僕なんぞが、裾の間から緋縮緬《ひぢりめん》のちらつくのを見たときのような心持がするだろうなあ」
逸見が怒るかと思うと大違で、真面目に返事をする。
「そりゃあお情所《なさけどころ》から出たものじゃと思うて見ることもあるたい」
「あはははは。女なら話を極めるのに、手を握るのだが、少年はどうするのだい」
「やっぱり手じゃが、こぎゃんして」
と宮裏の手を掴《つか》まえて、手の平を指で押して、承諾するときはその指を握るので、嫌なときは握らないのだと説明する。
誰やら逸見に何か歌えと勧めた。逸見は歌い出した。
「雲のあわやから鬼が穴《けつ》う突《つ》ん出して縄で縛るよな屁《へ》をたれた」
甚句《じんく》を歌うものがある。詩を吟ずるものがある。覗機関《のぞきからくり》の口上を真似る。声色《こわいろ》を遣う。そのうちに、鍋も瓶も次第に虚《から》になりそうになった。軟派の一人が、何か近い処で好い物を発見したというような事を言う。そんなら今から往《い》こうというものがある。此間《こないだ》門限の五分前に出ようとして留められたが、まだ十五分あるから大丈夫出られる。出てさえしまえば、明日《あした》証人の証書を持って帰れば好い。証書は、印の押してある紙を貰って持っているから、出来るというような話になる。
盲汁仲間はがやがやわめきながら席を起《た》った。鰐口も一しょに出てしまった。
僕は最中にも食い厭《あ》きて、本を見ていると、梯子《はしご》を忍足《しのびあし》で上って来るものがある。猟銃の音を聞き慣れた鳥は、猟人《かりゅうど》を近くは寄せない。僕はランプを吹き消して、窓を明けて屋根の上に出て、窓をそっと締めた。露か霜か知らぬが、瓦は薄じめりにしめっている。戸袋の蔭にしゃがんで、懐にしている短刀の※[#「※」は「きへんに雨に革に月」、40−10]《つか》をしっかり握った。
寄宿舎の窓は皆雨戸が締まっていて、小使部屋だけ障子に明《あかり》がさしている。足音は僕の部屋に這入った。あちこち歩く様子である。
「今までランプが付いておったが、どこへ往ったきゃんの」
逸見の声である。僕は息を屏《つ》めていた。暫《しばら》くして足音は部屋を出て、梯子を降りて行った。
短刀は幸に用足たずに済んだ。
*
十四になった。
日課は相変らず苦にもならない。暇さえあれば貸本を読む。次第に早く読めるようになるので、馬琴や京伝のものは殆ど読み尽した。それからよみ本というものの中で、外の作者のものを読んで見たが、どうも面白くない
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