夜行くぞ」と云った。「あの右の廊下の突き当りですよ。沓《くつ》を穿《は》いていらっしっては嫌」響の物に応ずる如しである。咽《む》せる様に香水を部屋に蒔《ま》いて、金井君が廊下をつたって行く沓足袋《くつたび》の音を待っていた。Munchen[#「u」にはウムラウトが付く] の珈琲店を思い出す。日本人の群がいつも行っている処である。そこの常客に、稍《や》や無頼漢肌の土地の好男子の連れて来る、凄味《すごみ》掛かった別品がいる。日本人が皆その女を褒《ほ》めちぎる。或晩その二人連がいるとき、金井君が便所に立った。跡から早足に便所に這入って来るものがある。忽《たちま》ち痩《や》せた二本の臂《ひじ》が金井君の頸《くび》に絡《ゥら》み附く。金井君の唇は熱い接吻を覚える。金井君の手は名刺を一枚握らせられる。旋風《つむじかぜ》のように身を回《かえ》して去るのを見れば、例の凄味の女である。番地の附いている名刺に「十一時三十分」という鉛筆書きがある。金井君は自分の下等な物に関係しないのを臆病のように云う同国人に、面当《つらあて》をしようという気になる。そこで冒険にもこの Rendez−Vous に行く。腹の皮に妊娠した時の痕《あと》のある女であった。この女は舞踏に着て行く衣裳の質に入れてあるのを受ける為めに、こんな事をしたということが、跡から知れた。同国人は荒肝を抜かれた。金井君も随分悪い事の限をしたのである。しかし金井君は一度も自分から攻勢を取らねばならない程強く性欲に動かされたことはない。いつも陣地を守ってだけはいて、穉《おさな》い Neugierde と余計な負けじ魂との為めに、おりおり不必要な衝突をしたに過ぎない。
金井君は初め筆を取ったとき、結婚するまでの事を書く積であった。金井君の西洋から帰ったのは二十五の年の秋であった。すぐに貰った初の細君は長男を生んで亡くなった。それから暫く一人でいて、三十二の年に十七になる今の細君を迎えた。そこで初は二十五までの事は是非書こうと思っていたのである。
さて一旦筆を置いて考えて見ると、かの不必要な衝突の偶然に繰り返されるのを書くのが、無意義ではあるまいかと疑うようになった。金井君の書いたものは、普通の意味でいう自伝ではない。それなら是非小説にしようと思ったかというと、そうでも無い。そんな事はどうでも好いとしても、金井君だとて、芸術的価値の無いものに筆を着けたくはない。金井君は Nietzsche のいう Dionysos 的なものだけを芸術として視てはいない。Apollon 的なものをも認めている。しかし恋愛を離れた性欲には、情熱のありようがないし、その情熱の無いものが、いかに自叙に適せないかということは、金井君も到底自覚せずにはいられなかったのである。
金井君は断然筆を絶つことにした。
そしてつくづく考えた。世間の人は今の自分を見て、金井は年を取って情熱がなくなったと云う。しかしこれは年を取った為めではない。自分は少年の時から、余りに自分を知り抜いていたので、その悟性が情熱を萌芽《ほうが》のうちに枯らしてしまったのである。それがふとつまらない動機に誤られて、受けなくても好い dub を受けた。これは余計な事であった。結婚をするまで dub を受けずにいた方が好かった。更に一歩を進めて考えて見れば、果して結婚前に dub を受けたのを余計だとするなら、或は結婚もしない方が好かったのかも知れない。どうも自分は人並はずれの冷澹《れいたん》な男であるらしい。
金井君は一旦こう考えたが、忽ち又考え直した。なる程、dub を受けたのは余計であろう。しかし自分の悟性が情熱を枯らしたようなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩《おお》われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。Michelangelo は青年の時友達と喧嘩をして、拳骨で鼻を叩き潰《つぶ》されて、望を恋愛に絶ったが、却《かえっ》て六十になってから Vittoria Colonna に逢って、珍らしい恋愛をし遂げた。自分は無能力では無い。Impotent では無い。世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎《の》って、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている。羅漢《らかん》に跋陀羅《ばつだら》というのがある。馴れた虎を傍《そば》に寝かして置いている。童子がその虎を怖れている。Bhadra とは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。只馴らしてあるだけで、虎の怖るべき威は衰えてはいないのである。
金井君はこう思い直して、静に巻《まき》の首《はじめ》から読み返して見た。そして結末まで読んだときには、夜はいよいよ更《ふ》けて、雨はいつの間にか止んでいた。樋の口から石に落ちる点滴が、長い間《ま》を置い
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