せた。この人は某元老の壻さんである。下谷の大茂《だいしげ》という待合で遊ばれる。心安くなるには、やはりその待合へも行くが好いということになる。折々行く。芸者を四五人呼んで、馬鹿話をして帰る。その頃は物価が安くて、割前が三四円位であった。僕は古賀の勤めている役所の翻訳物を受け合ってしていたので、懐中が温《あたたか》であった。その頃は法律の翻訳なんぞは、一枚三円位取れたのである。五十円位の金はいつも持っていた。ところが、僕が一しょに行くと、望月君がきっと酒ばかり飲んで帰られる。古賀が云うには、「あれは君に遠慮しておられるのかも知れない。僕が遠慮のないようにして遣ろう」と云った。そして或晩古賀がお上《かみ》に話をした。僕がこの時古賀に抗抵しなかったのも、芸者はどんな事をするものかと思う Neugierde があったからだろう。
一月の末でもあったか。寒い晩であった。いつもの通《とおり》三人で、下谷芸者の若くて綺麗なのを集めて、下らない事をしゃべっている。そこへお上が這入って来る。望月君が妙な声をする。故意《わざ》とするのである。
「婆《ばば》あ」
「なんですよ。あなた、嫌に顔がてらてらして来ましたよ。熱いお湯でお拭なさい」
お上は女中に手拭を絞って来させて、望月君に顔を拭かせる。苦味《にがみ》ばしった立派な顔が、綺麗になる。僕なんぞの顔は拭いても拭き栄《ばえ》がしないから、お上も構わない。
「金井さん。ちょいと」
お上が立つ。僕は附いて廊下へ出る。女中がそこに待っていて、僕を別間に連れて行く。見たこともない芸者がいる。座敷で呼ばせるのとは種《たね》が違うと見える。少し書きにくい。僕は、衣帯を解かずとは、貞女が看病をする時の事に限らないということを、この時教えられたのである。
今度は事実を曲げずに書かれる。その後も待合には行ったが、待合の待合たることを経験したのは、これを始の終であった。
数日の間、例の不安が意識の奥の方にあった。しかし幸に何事もなかった。
暖くなってから、或日古賀と吹抜亭《ふきぬきてい》へ円朝の話を聞きに行った。すぐ傍《そば》に五十ばかりの太った爺さんが芸者を連れて来ていた。それが貞女の芸者であった。彼と僕とはお互に空気を見るが如くに見ていた。
*
同じ年の六月七日に洋行の辞令を貰った。行く先は独逸である。
独逸人の処へ稽古に行く。壱岐坂《いきざか》時代の修行が大いに用立つ。
八月二十四日に横浜で舟に乗った。とうとう妻を持たずに出立したのである。
*
金井君は或夜ここまで書いた。内じゅうが寝静まっている。雨戸の外は五月雨《さみだれ》である。庭の植込に降る雨の、鈍い柔な音の間々《あいだあいだ》に、亜鉛《あえん》の樋《とい》を走る水のちゃらちゃらという声がする。西片町の通は往来《ゆきき》が絶えて、傘を打つ点滴も聞えず、ぬかるみに踏《ふ》み込む足駄も響かない。
金井君は腕組をして考え込んでいる。
先ず書き掛けた記録の続きが、次第もなく心に浮ぶ。伯林《ベルリン》の Unter den Linden を西へ曲った処の小さい珈琲《コォフイィ》店を思い出す。Cafe[#「e」にはアクサンが付く] Krebs である。日本の留学生の集る処で、蟹屋《かにや》蟹屋と云ったものだ。何遍行っても女に手を出さずにいると、或晩一番美しい女で、どうしても日本人と一しょには行かないというのが、是非金井君と一しょに行くと云う。聴かない。女が癇癪《かんしゃく》を起して、melange[#最初の「e」にはアクサンが付く] のコップを床に打ち附けて壊す。それから Karlstrasse の下宿屋を思い出す。家主の婆あさんの姪《めい》というのが、毎晩|肌襦袢《はだじゅばん》一つになって来て、金井君の寝ている寝台の縁《ふち》に腰を掛けて、三十分ずつ話をする。「おばさんが起きて待っているから、只お話だけして来るのなら、構わないといいますの。好いでしょう。お嫌ではなくって」肌の温まりが衾《ふすま》を隔てて伝わって来る。金井君は貸借法の第何条かに依って、三箇月分の宿料を払って逃げると、毎晩夢に見ると書いた手紙がいつまでも来たのである。Leipzig の戸口に赤い灯の附いている家を思い出す。※[#「※」は「糸に求」、94−10]《ちぢ》らせた明色《めいしょく》の髪に金粉を傅《つ》けて、肩と腰とに言訣《いいわけ》ばかりの赤い着物を着た女を、客が一人|宛傍《ずつそば》に引き寄せている。金井君は、「己は肺病だぞ、傍に来るとうつるぞ」と叫んでいる。維也納《ウインナ》のホテルを思い出す。臨時に金井君を連れて歩いていた大官が手を引張ったのを怒った女中がいる。金井君は馬鹿気た敵愾心《てきがいしん》を起して、出発する前日に、「今
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