。女から病気を受けたら、それどころではない。子孫にまで禍《わざわい》を遺《のこ》すかも知れないなどとも思って見る。先ず翌日になって感じた心理上の変動は、こんなものであって、思ったよりは微弱であった。そのうえ、丁度空気の受けた波動が、空間の隔たるに従って微《かす》かになるように、この心理上の変動も、時間の立つに従って薄らいだ。
それとは反対で、ここに僕の感情的生活に一つの変化が生じて来て、それが日にましはっきりして来た。何だというと、僕はこれまでは、女に対すると、何となく尻籠《しりごみ》をして、いく地なく顔が赤くなったり、詞《ことば》が縺《もつ》れたりしたものだ。それがこの時から直ったのである。こんな譬は、誰かが何処《どこ》かで、とっくに云っているだろうが、僕は騎士としてdubを受けたのである。
この事があってから、当分の間は、お母様が常に無い注意を僕の上に加えられるようであった。察するに、世間で好く云う病附《やみつき》ということがありはすまいかとお思なすったのだろう。それは杞憂《きゆう》であった。
僕が若し事実を書かないのなら、僕は吉原という処へ往ったのがこれ切だと云いたい。しかし少しも偽らずに書こうと云うには、ここに書き添えて置かねばならない事がある。それはずっと後であった。僕は一度妻を迎えて、その妻に亡くなられて、二度目の妻をまだ迎えずにいた時であった。或る秋の夕方、古賀が僕の今の内へ遊びに来た。帰り掛に上野辺まで一しょに行こうということになった。さて門を出掛けると、三枝《さいぐさ》という男が来合せた。僕の縁家のもので、古賀をも知っているから、一しょに来ようと云う。そこで三人は青石横町《あおいしよこちょう》の伊予紋で夕飯を食う。三枝は下情に通じているのが自慢の男で、これから吉原の面白い処を見せてくれようと云い出す。これは僕が鰥《やもめ》だというので、余りお察しの好過ぎたのかも知れない。古賀が笑って行こうと云う。僕は不精々々に同意した。
僕等は大門の外で車を下りる。三枝が先に立ってぶらぶら歩く。何町か知らないが、狭い横町に曲る。どの家の格子にも女が出ていて、外に立っている男と話をしている。小格子というのであろう。男は大抵|絆纒着《はんてんぎ》である。三枝はその一人を見て、「好い男だなあ」と云った。いなせとでも云うような男である。三枝の理想の好男子は絆纒着のうちにあると見える。三枝は、「一寸失敬」と云うかと思えば、小さい四辻に担荷《かつぎに》を卸して、豆を煎《い》っている爺さんの処へ行って、弾豆《はじけまめ》を一袋買って袂《たもと》に入れる。それから少し歩くうちに、古賀と僕とを顧みて、「ここだ」と云って、ついと或店にはいる。馴染《なじみ》の家と見える。
二階へ通る。三枝が、例の伸屈《のびかがみ》の敏捷《びんしょう》な男と、弾豆を撮《つま》んで食いながら話をする。暫くして僕は鼻を衝《つ》くような狭い部屋に案内せられる。ランプと烟草盆とが置いてある。煎餅布団《せんべいぶとん》が布《し》いてある。僕は坐布団がないから、為方なしにその煎餅布団の真中に胡坐《あぐら》をかく。紙巻烟草に火を附けて呑んでいる。裏の方の障子が開く。女が這入る。色の真蒼《まっさお》な、人の好さそうな年増である。笑いながら女が云う。
「お休なさらないの」
「己《おれ》は寝ない積だ」
「まあ」
「お前はひどく血色が悪いではないか。どうかしたのかい」
「ええ。胸膜炎で二三日前まで病院にいましたの」
「そうかい。それでいて、客の処へ出るのはつらかろうなあ」
「いいえ。もう心持は何ともありませんの」
「ふむ」
暫く顔を見合せている。女がやはり笑いながら云う。
「あなた可笑しゅうございますわ」
「何が」
「こうしていては」
「そんなら腕角力《うでずもう》をしよう」
「すぐ負けてしまうわ」
「なに。己もあまり強くはない。女の腕というものは馬鹿にならないものだそうだ」
「あら。旨い事を仰ゃるのね」
「さあ来い」
煎餅布団の上に肘《ひじ》を突いて、右の手を握り合った。女は力も何もありはしない。いくら力を入れて見ろと云ってもだめである。僕は何の力をも費さずに押え附けてしまった。
障子の外から、古賀と三枝とが声を掛けた。僕は二人と一しょに帰った。これが僕の二度目の吉原|通《がよい》であった。そして最後の吉原通である。序《ついで》だから、ここに書き添えて置く。
*
二十一になった。
洋行がいよいよ極まった。しかし辞令は貰わない。大学の都合で、夏の事になるだろうということである。
いろいろな縁談で、お母様が頻《しきり》に気を揉《も》んでお出《いで》なさる。
古賀が、後々の為めに好かろうと云うので、僕を某省の参事官の望月《もちづき》君という人に引き合
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