。
中年増は僕をこの間《ま》に案内して置いて、どこか行ってしまった。僕は例の黒羽二重の羊羹色《ようかんいろ》になったのを着て、鉄の長烟管を持ったままで、箱火鉢の前の座布団の上に胡坐《あぐら》をかいた。
神田で嫌《いや》な酒を五六杯飲ませられたので、咽《のど》が乾く。土瓶に手を当てて見ると、好い加減に冷えている。傍に湯呑のあったのに注いで見れば、濃い番茶である。僕は一息にぐっと飲んだ。
その時僕の後《うしろ》にしていた襖がすうと開いて、女が出て、行燈の傍に立った。芝居で見たおいらんのように、大きな髷《まげ》を結って、大きな櫛笄《くしこうがい》を挿して、赤い処の沢山ある胴抜《どうぬき》の裾を曳《ひ》いている。目鼻立の好い白い顔が小さく見える。例の中年増が附いて来て座布団を直すと、そこへすわった。そして黙って笑顔をして僕を見ている。僕は黙って真面目な顔をして女を見ている。
中年増は僕の茶を飲んだ茶碗に目を附けた。
「あなたこの土瓶のをあがったのですか」
「うむ。飲んだ」
「まあ」
中年増は変な顔をして女を見ると、女が今度はあざやかに笑った。白い細かい歯が、行灯の明りできらめいた。中年増が僕に問うた。
「どんな味がしましたか」
「旨《うま》かった」
中年増と女とは二たび目を見合せた。女が二たびあざやかに笑った。歯が二たび光った。土瓶の中のはお茶ではなかったと見える。僕は何を飲んだのだか、今も知らない。何かの煎薬《せんやく》であったのだろう。まさか外用薬ではなかったのだろう。
中年増が女の櫛道具を取って片附けた。それから立って、黒塗の箪笥から袿《かけ》を出して女に被《き》せた。派手な竪縞《たてじま》のお召縮緬《めしちりめん》に紫|繻子《じゅす》の襟が掛けてある。この中年増が所謂《いわゆる》番新というのであろう。女は黙って手を通す。珍らしく繊《ほそ》い白い手であった。番新がこう云った。
「あなたもう遅うございますから、ちとあちらへ」
「寝るのか」
「はい」
「己《おれ》は寝なくても好《い》い」
番新と女とは三たび目を見合せた。女が三たびあざやかに笑った。歯が三たび光った。番新がつと僕の傍に寄った。
「あなたお足袋を」
この奪衣婆《だついばば》が僕の紺足袋を脱がせた手際は実に驚くべきものであった。そして僕を柔かに、しかも反抗の出来ないように、襖のあなたへ連れ込んだ。
八畳の間である。正面は床の間で、袋に入れた琴が立て掛けてある。黒塗に蒔絵《まきえ》のしてある衣桁《いこう》が縦に一間を為切《しき》って、その一方に床が取ってある。婆あさんは柔かに、しかも反抗の出来ないように、僕を横にならせてしまった。僕は白状する。番新の手腕はいかにも巧妙であった。しかしこれに反抗することは、絶待的不可能であったのではない。僕の抗抵《こうてい》力を麻痺《まひ》させたのは、慥《たしか》に僕の性欲であった。
僕は霽波に構わずに、車を言い附けて帰った。小菅の内に帰って見れば、戸が締まって、内はひっそりしている。戸を叩くと、すぐにお母様が出て開けて下すった。
「大そう遅かったね」
「はい。非常に遅くなりました」
お母様の顔には一種の表情がある。しかし何とも仰《おっし》ゃらない。僕にはその時のお母様の顔がいつまでも忘れられなかった。僕は只「お休なさい」と云って、自分の部屋に這入った。時計を見れば三時半であった。僕はそのまま床にもぐり込んでぐっすり寐た。
翌日朝飯を食うとき、お父様が、三輪崎とかいう男は放縦な生活をしているので、酒を飲めば、飲み明かさねば面白くないというような風ではないか、若《も》しそうなら、その男とは余り交際しない方が好かろうと仰ゃった。お母様は黙ってお出なすった。僕は、三輪崎とは気象が合わないから、親しくする積ではないと云った。実際そう思っていたのである。
四畳半の部屋に帰ってから、昨日の事を想って見る。あれが性欲の満足であったか。恋愛の成就はあんな事に到達するに過ぎないのであるか。馬鹿々々しいと思う。それと同時に僕は意外にも悔という程のものを感じない。良心の呵責《かしゃく》という程のものを覚えない。勿論あんな処へ行くのは、悪い事だと思う。あんな処へ行こうと預期して、自分の家の閾《しきい》を越えて出掛けることがあろうとは思わない。しかしあんな処へ行き当ったのは為方がないと思う。譬《たと》えて見れば、人と喧嘩をするのは悪い事だ。喧嘩をしようと志して、外へ出ることは無い。しかし外へ出ていて、喧嘩をしなければならないようになるかも知れない。それと同じ事だと思う。それから或る不安のようなものが心の底の方に潜んでいる。それは若しや悪い病気になりはすまいかということである。喧嘩をした跡でも、日が立ってから打身《うちみ》の痛み出すことがある
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