来る。ところが僕は酒が飲めない。安斎も飲めない。霽波が一人で飲んで一人で騒ぐ。三人の客は、壮士と書生との間《あい》の子という風で、最も壮士らしいのが霽波、最も普通の書生らしいのが安斎である。二人は紺飛白《こんがすり》の綿入に同じ羽織を着ている。安斎は大人しいが気の利《き》いた男で、霽波と一しょには騒がないまでも、芸者と話もする。杯の取遣《とりやり》もする。
 僕は仲間はずれである。その頃僕は、お父様の国で廉《かど》のある日にお着なすった紋附の黒羽二重のあったのを、お母様に為立て直して貰って、それが丈夫で好いというので、不断着にしていた。それを着たままで、霽波に連れられて出たのである。そして二尺ばかりの鉄の烟管《きせる》を持っている。これは例の短刀を持たなくても好くなった頃、丁度|烟草《たばこ》を呑み始めたので、護身用だと云って、拵えさせたのである。それで燧袋《ひうちぶくろ》のような烟草入から雲井を撮《つま》み出して呑んでいる。酒も飲まない。口も利かない。
 しかしその頃の講武所芸者は、随分変な書生を相手にし附けていたのだから、格別驚きもしない。むやみに大声を出して、霽波と一しょに騒いでいる。
 十一時半頃になった。女中がお車が揃《そろ》いましたと云って来た。揃いましたは変だとは思ったが、左程《さほど》気にも留めなかった。霽波が先に立って門口に出て車に乗る。安斎も僕も乗る。僕は「大千住の先の小菅だよ」と車夫に言ったが、車夫は返詞をせずに梶棒《かじぼう》を上げた。
 霽波の車が真先に駈け出す。次が安斎、殿《しんがり》が僕と、三台の車が続いて、飛ぶように駈ける。掛声をして、提灯《ちょうちん》を振り廻して、御成道《おなりみち》を上野へ向けて行く。両側の店は大抵戸を締めている。食物店の行燈《あんどん》や、蝋燭なんぞを売る家の板戸に嵌《は》めた小障子に移る明りが、おりおり見えて、それが逆に後へ走るかと思うようだ。往来の人は少い。偶々《たまたま》出逢う人は、言い合せたように、僕等の車を振り向いて見る。
 車はどこへ行くのだろう。僕は自分の経験はないが、車夫がどこへ行くとき、こんな風に走るかということは知っている。
 広小路を過ぎて、仲町へ曲る角の辺に来たとき、安斎が車の上から後に振り向いて、「逃げましょう」と云った。安斎の車は仲町へ曲った。
 安斎は遺伝の痼疾《こしつ》を持っている。体が人並でない。こんな車の行く処へは行かれないのである。
 僕は車夫に、「今の車に附いて行け」と云った。小菅に帰るには、仲町へ曲ってはだめであるが、とにかく霽波と別れさえすれば、跡はどうでもなると思ったのである。僕の車は猶予しながら、仲町の方へ梶棒を向けた。
 この時霽波の車は一旦三橋を北へ渡ったのが、跡へ引き返してきた。霽波は車の上から大声にどなった。
「おい。逃げては行けない」
 僕の車は霽波の車の跡に続いた。霽波は振り返り振り返りして、僕の車を監視している。
 僕は再び脱走を試みようとはしなかった。僕が強《し》いて争ったなら、霽波もまさか乱暴はしなかったのだろう。しかし極力僕を引張って行こうとしたには違ない。僕は上野の辻で、霽波と喧嘩をしたくはない。その上僕には負けじ魂がある。僕は霽波に馬鹿にせられるのが不愉快なのである。この負けじ魂は人をいかなる罪悪の深みへも落しかねない、頗《すこぶ》る危険なものである。僕もこの負けじ魂の為めに、行きたくもない処へ行くことになったのである。それから僕を霽波に附いて行かせた今一つの factor のあるのを忘れてはならない。それは例の未知のものに引かれる Neugierde である。
 二台の車は大門に入った。霽波の車夫が、「お茶屋は」と云うと、霽波が叱るように或る家の名をどなった。何でも Astacidae 族の皮の堅い動物の名である。
 十二時を余程過ぎている。両側の家は皆戸を締めている。車は或る大きな家の、締まった戸の前に止まった。霽波が戸を叩くと、小さい潜戸《くぐりど》を開けて、体の恐ろしく敏速に伸屈《のびかがみ》をする男が出て、茶屋がどうのこうのと云って、霽波と小声で話し合った。暫《しばら》く押問答をした末に、二人を戸の内に案内した。
 二階へ上ると、霽波はどこか行ってしまった。一人の中年増《ちゅうどしま》が出て、僕を一間に連れ込んだ。
 細長い間《ま》の狭い両側は障子で、廊下に通じている。広い側の一方は、開き戸の附いた黒塗の箪笥《たんす》に、真鍮《しんちゅう》の金物を繁く打ったのを、押入れのような処に切り嵌《は》めてある。朱塗の行燈の明りで、漆と真鍮とがぴかぴか光っている。広い側の他の一方は、四枚の襖《ふすま》である。行燈は箱火鉢の傍に置いてあって、箱火鉢には、文火《ぬるび》に大きな土瓶《どびん》が掛かっている
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