うことを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」
裔一はふいと帰って行った。
僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてある簾《すだれ》を透して、冠木門《かぶきもん》を出て行く友の姿が見える。白地の浴衣《ゆかた》に麦稈帽《むぎわらぼう》を被った裔一は、午《ひる》過の日のかっかっと照っている、かなめ垣の道に黒い、短い影を落しながら、遠ざかって行く。
裔一は置土産に僕を諷諫《ふうかん》したのである。僕は一寸腹が立った。何もその位な事を人に聞かなくても好いと思う。それも人による。万事に掛けて自分よりは鈍いように思っていた裔一には、出過ぎた話だと思う。その上お蝶が何だ。こっちはまるで女とも何とも思っていないのではないか。人を識《し》らないのだ。寃《えん》もまた甚《はなはだ》しいと思ったのである。
机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に留まった事はないかと思うと、ふいと今朝の事を思い出す。今朝散歩に出た。出るときお蝶は蚊屋《かや》を畳み掛けていた。三十分も歩いたと思って帰って見ると、お蝶は畳んだ蚊屋を前に置いて、目は空《くう》を見てぼんやりしてすわっていた。もう疾《とっ》くに片付けてしまっているだろうと思ったのに、意外であった。その時僕は少し懶《なま》けて来たなと思った。あの時お蝶は三十分が間も何を思っていたのだろう。こう思って、僕は何物をか発見したような心持がした。
この時から僕はお蝶に注意するようになった。別な目でお蝶を見る。飯の給仕をしてくれる時に、彼の表情に注意する。注意して見ると、こういう事がある。初の頃は俯向いてはいたが、度々僕の顔を見ることがあった。それがこの頃は殆ど全く僕の顔を見ない。彼の態度は確に変って来たのである。
僕は庭なぞを歩くとき、これまでは台所の前を通っても、中でことこと言わせているのを聞きながら、其方《そっち》を見ずに通ったのが、今度は見て通る。物なんぞを洗い掛けて手を休めて、空《くう》を見て、じっとしているのが目に附く。何か考えているようである。
又飯の給仕に来る。僕の観察の目が
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