宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸《ギリシャラテン》の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。僕はノオトブックと参考書とを同じ順序にシェルフに立てた。黒と赤とのインキを瓶のひっくり反《かえ》らない用心に、菓子箱のあいたのに、並べて入れたのに、ペンを添えて、机の向うの方に置いた。大きい吸取紙を広げて、机の前の方に置いた。その左に厚い表紙の附いている手帖を二冊|累《かさ》ねて置いた。一冊は日記で、寝る前に日日の記事をきちんと締め切るのである。一冊は学科に関係のない事件の備忘録で、表題には生利《なまぎき》にも紺珠《かんじゅ》という二字がペンで篆書《てんしょ》に書いてある。それから机の下に忍ばせたのは、貞丈《ていじょう》雑記が十冊ばかりであった。その頃の貸本屋の持っていた最も高尚なものは、こんな風な随筆類で、僕のように馬琴京伝の小説を卒業すると、随筆読になるより外ないのである。こんな物の中から何かしら見出《みいだ》しては、例の紺珠に書き留めるのである。
 古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、貞丈雑記を机の下に忍ばせるのを見て、こう云った。
「それは何の本だ」
「貞丈雑記だ」
「何が書いてある」
「この辺には装束の事が書いてある」
「そんな物を読んで何にする」
「何にもするのではない」
「それではつまらんじゃないか」
「そんなら、僕なんぞがこんな学校に這入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になる為めとか、教師になる為めとかいうわけでもあるまい」
「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」
「そりゃあ、なるかも知れない。しかしそれになる為めに学問をするのではない」
「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」
「うむ。まあ、そうだ」
「ふむ。君は面白い小僧だ」
 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手を睨《にら》んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。
 その日の夕かたであった。古賀が一しょに散歩
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