無いものに筆を着けたくはない。金井君は Nietzsche のいう Dionysos 的なものだけを芸術として視てはいない。Apollon 的なものをも認めている。しかし恋愛を離れた性欲には、情熱のありようがないし、その情熱の無いものが、いかに自叙に適せないかということは、金井君も到底自覚せずにはいられなかったのである。
金井君は断然筆を絶つことにした。
そしてつくづく考えた。世間の人は今の自分を見て、金井は年を取って情熱がなくなったと云う。しかしこれは年を取った為めではない。自分は少年の時から、余りに自分を知り抜いていたので、その悟性が情熱を萌芽《ほうが》のうちに枯らしてしまったのである。それがふとつまらない動機に誤られて、受けなくても好い dub を受けた。これは余計な事であった。結婚をするまで dub を受けずにいた方が好かった。更に一歩を進めて考えて見れば、果して結婚前に dub を受けたのを余計だとするなら、或は結婚もしない方が好かったのかも知れない。どうも自分は人並はずれの冷澹《れいたん》な男であるらしい。
金井君は一旦こう考えたが、忽ち又考え直した。なる程、dub を受けたのは余計であろう。しかし自分の悟性が情熱を枯らしたようなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩《おお》われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。Michelangelo は青年の時友達と喧嘩をして、拳骨で鼻を叩き潰《つぶ》されて、望を恋愛に絶ったが、却《かえっ》て六十になってから Vittoria Colonna に逢って、珍らしい恋愛をし遂げた。自分は無能力では無い。Impotent では無い。世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎《の》って、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている。羅漢《らかん》に跋陀羅《ばつだら》というのがある。馴れた虎を傍《そば》に寝かして置いている。童子がその虎を怖れている。Bhadra とは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。只馴らしてあるだけで、虎の怖るべき威は衰えてはいないのである。
金井君はこう思い直して、静に巻《まき》の首《はじめ》から読み返して見た。そして結末まで読んだときには、夜はいよいよ更《ふ》けて、雨はいつの間にか止んでいた。樋の口から石に落ちる点滴が、長い間《ま》を置い
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