うちにあると見える。三枝は、「一寸失敬」と云うかと思えば、小さい四辻に担荷《かつぎに》を卸して、豆を煎《い》っている爺さんの処へ行って、弾豆《はじけまめ》を一袋買って袂《たもと》に入れる。それから少し歩くうちに、古賀と僕とを顧みて、「ここだ」と云って、ついと或店にはいる。馴染《なじみ》の家と見える。
二階へ通る。三枝が、例の伸屈《のびかがみ》の敏捷《びんしょう》な男と、弾豆を撮《つま》んで食いながら話をする。暫くして僕は鼻を衝《つ》くような狭い部屋に案内せられる。ランプと烟草盆とが置いてある。煎餅布団《せんべいぶとん》が布《し》いてある。僕は坐布団がないから、為方なしにその煎餅布団の真中に胡坐《あぐら》をかく。紙巻烟草に火を附けて呑んでいる。裏の方の障子が開く。女が這入る。色の真蒼《まっさお》な、人の好さそうな年増である。笑いながら女が云う。
「お休なさらないの」
「己《おれ》は寝ない積だ」
「まあ」
「お前はひどく血色が悪いではないか。どうかしたのかい」
「ええ。胸膜炎で二三日前まで病院にいましたの」
「そうかい。それでいて、客の処へ出るのはつらかろうなあ」
「いいえ。もう心持は何ともありませんの」
「ふむ」
暫く顔を見合せている。女がやはり笑いながら云う。
「あなた可笑しゅうございますわ」
「何が」
「こうしていては」
「そんなら腕角力《うでずもう》をしよう」
「すぐ負けてしまうわ」
「なに。己もあまり強くはない。女の腕というものは馬鹿にならないものだそうだ」
「あら。旨い事を仰ゃるのね」
「さあ来い」
煎餅布団の上に肘《ひじ》を突いて、右の手を握り合った。女は力も何もありはしない。いくら力を入れて見ろと云ってもだめである。僕は何の力をも費さずに押え附けてしまった。
障子の外から、古賀と三枝とが声を掛けた。僕は二人と一しょに帰った。これが僕の二度目の吉原|通《がよい》であった。そして最後の吉原通である。序《ついで》だから、ここに書き添えて置く。
*
二十一になった。
洋行がいよいよ極まった。しかし辞令は貰わない。大学の都合で、夏の事になるだろうということである。
いろいろな縁談で、お母様が頻《しきり》に気を揉《も》んでお出《いで》なさる。
古賀が、後々の為めに好かろうと云うので、僕を某省の参事官の望月《もちづき》君という人に引き合
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