田へとてにはあらざるべし。きょう今までの座敷《ざしき》より本店のかたへ遷《うつ》る。ここは農夫の客に占《し》められたりしがようやく明《あ》きしなり。隣《となり》の間《ま》に鬚《ひげ》美《うるわ》しき男あり、あたりを憚《はばか》らず声高《こえたか》に物語するを聞くに、二言《ふたこと》三言《みこと》の中に必ず県庁《けんちょう》という。またそれがこの地のさだめかという代りに「それがこの鉱泉《こうせん》の憲法《けんぽう》か」などいう癖《くせ》あり。ある時はわが大学に在りしことを聞知《ききし》りてか、学士《がくし》博士《はかせ》などいう人々|三文《さんもん》の価《あたい》なしということしたり顔《がお》に弁《べん》じぬ。さすがにことわりなきにもあらねど、これにてわれを傷《きづつ》けんとおもうは抑《そも》迷《まよい》ならずや。おりおり詩歌《しか》など吟《ぎん》ずるを聞くに皆|訛《なま》れり。おもうにヰルヘルム、ハウフ[#「ヰルヘルム、ハウフ」に傍線]が文に見えたる物学びし猿《さる》はかくこそありけめ。唯彼猿はそのむかしを忘《わす》れずして、猶亜米利加の山に栖《す》める妻の許《もと》へふみおくりしなどいと殊勝《しゅしょう》に見ゆる節《ふし》もありしが、この男はおなじ郷《さと》の人をも夷《えびす》の如くいいなして嘲《あざけ》るぞかたはら痛《いた》き。少女の挽物細工《ひきものさいく》など籠《かご》に入れて売《う》りに来るあり。このお辰まだ十二三なれば、われに百円づつみ抛出《なげだ》さする憂《うれい》もなからん。
二十二日。雨。目の前なる山の頂《いただき》白雲につつまれたり。炉《ろ》に居寄《いよ》りてふみ読みなどす。東京の新聞《しんぶん》やあると求《もと》むるに、二日前の朝野新聞と東京公論とありき。ここにも小説《しょうせつ》は家ごとに読《よ》めり。借《か》りてみるに南翠外史の作、涙香小史の翻訳《ほんやく》などなり。
二十三日、家《いえ》のあるじに伴《ともな》われて、牛の牢という渓間《たにま》にゆく。げに此《この》流《ながれ》には魚《うお》栖《す》まずというもことわりなり。水の触《ふ》るる所、砂石《しゃせき》皆赤く、苔《こけ》などは少しも生ぜず。牛の牢という名は、めぐりの石壁《いしかべ》削《けず》りたるようにて、昇降《のぼりくだり》いと難《かた》ければなり。ここに来るには、横《よこ》に道《みち》を取りて、杉林《すぎばやし》を穿《うが》ち、迂廻《うかい》して下《くだ》ることなり。これより鳳山亭の登《のぼ》りみち、泉《いづみ》ある処に近き荼毘所《とびじょ》の迹《あと》を見る。石を二行《にぎょう》に積みて、其間の土を掘《ほ》りて竈《かまど》とし、その上に桁《けた》の如く薪を架《か》し、これを棺《かん》を載《の》するところとす。棺は桶《おけ》を用いず、大抵《たいてい》箱形《はこがた》なり。さて棺のまわりに糠粃《ぬか》を盛りたる俵六つ或は八つを竪《たて》に立掛《たてか》け、火を焚付《たきつ》く。俵の数は屍《しかばね》の大小により殊《こと》なるなり。初薪のみにて焚きしときは、むら焼けになることありて、火箸《ひばし》などにてかきまぜたりしが、糠粃を用いそめてより、屍の燃《も》ゆるにつれて、こぼれこみて掩《おお》えば、さる憂《うれい》なしといえり。山田にては土葬《どそう》するもの少く、多くは荼毘するゆえ、今も死人《しにん》あれば此竈を使《つか》うなり。村はずれの薬師堂の前にて、いわなの大なるを買《か》いて宿《やど》の婢に笑《わら》わる。いわなは小なるを貴び、且ところの流にて取りたるをよしとするものなるに、わが買いもてかえりしは、草津のいわなの大なるなれば、味定めて悪《あし》からんという。嘗《こころ》みるに果して然り。ここより薬師堂の方を、六里ばかり越ゆけば草津に至るべし、是れ間道《かんどう》なり。今年の初、欧洲人雪を侵《おか》して越《こ》えしが、むかしより殆ためしなき事とて、案内者《あんないしゃ》もたゆたいぬと云。
廿四日、天気《てんき》好《よ》し。隣《となり》の客《きゃく》つとめて声高《こわだか》に物語《ものがたり》するに打驚《うちおどろ》きて覚《さ》めぬ。何事《なにごと》かと聞けば、衛生《えいせい》と虎列拉《これら》との事なり。衛生とは人の命《いのち》延《の》ぶる学《がく》なり、人の命|長《なが》ければ、人口《じんこう》殖《ふ》えて食《しょく》足《た》らず、社会《しゃかい》のためには利《り》あるべくもあらず。かつ衛生の業《ぎょう》盛《さかん》になれば、病人《びょうにん》あらずなるべきに、医《い》のこれを唱《とな》うるは過《あやま》てり云々。これ等の論《ろん》、地下《ちか》のスペンサア[#「スペンサア」に傍線]を喜《よろこ》ばしむるに足《た》らん。虎列拉には
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