三種《さんしゅ》ありて、一を亜細亜虎列拉といい、一を欧羅巴虎列拉といい、一を霍乱《かくらん》という、此病には「バチルレン」というものありて、華氏百度の熱《ねつ》にて死《し》す云々。これはペツテンコオフエル[#「ペツテンコオフエル」に傍線]が疫癘学《えきれいがく》、コツホ[#「コツホ」に傍線]が細菌学《さいきんがく》を倒《たお》すに足りぬべし。また恙《よう》の虫《むし》の事語りていわく、博士なにがしは或るとき見に来しが何のしいだしたることもなかりき、かかることは処《ところ》の医こそ熟《よ》く知りたれ。何某という軍医、恙の虫の論に図《ず》など添《そ》えて県庁にたてまつりしが、こはところの医のを剽窃《ひょうせつ》したるなり云々。かかることしたり顔《がお》にいい誇《ほこ》るも例の人の癖《くせ》なるべし。おなじ宿《やど》に木村篤迚、今新潟始審裁判所の判事|勤《つと》むる人あり。臼井六郎が事を詳《つまびらか》に知れりとて物語す。面白《おもしろ》きふし一ツ二ツかきつくべし。当時秋月には少壮者《しょうそうしゃ》の結べる隊《たい》ありて、勤王党と称《しょう》し、久留米などの応援《おうえん》を頼みて、福岡より洋式《ようしき》の隊来るを、境《さかい》にて拒み、遂に入れざりしほどの勢なりき。これに反対《はんたい》したる開化党は多く年長《とした》けたる士なりしが、其|首《かしら》にたちて事をなす学者二人ありて、皆陽明学者なりし、その一人は六郎が父なりき。勤王党の少壮者二手に分かれて、ある夜彼二人の邸《やしき》にきりこみぬ。なにがしという一人の家を囲《かこ》みたるおり、鶏《にわとり》の塒《ねぐら》にありしが、驚きて鳴きしに、主人すは狐《きつね》の来しよと、素肌《すはだか》にて起き、戸を出ずる処を、名乗掛《なのりか》けて唯《ただ》一槍《ひとやり》に殺しぬ。六郎が父は、其夜|酔臥《すいが》したりしが、枕《まくら》もとにて声掛けられ、忽ちはね起きて短刀《たんとう》抜《ぬ》きはなし、一たち斫《き》られながら、第二第三の太刀を受けとめぬ。その命を断ちしは第四の太刀なりき。六郎が母もこの夜殺されぬ。はじめ家族までも傷《きづつ》けんという心はなかりしが、きり入りし一同《いちどう》の鳥銃放ちて引上げたるとき、一人足らざりしかば、怪みて臼井が邸にかえりて見しに、此男六郎が母に組《く》まれて、其場を去り得ざりしなり。引放《ひきはな》たんとするに、母|劇《はげ》しくすまいて、屈する気色《けしき》なければ、止むを得ずして殺しぬ。六郎が祖父は隠居所《いんきょじょ》にありしが、馳出《はせい》でて門のあきたるを見て、外なる狼藉者《ろうぜきもの》を入れじと、門を鎖《とざ》さんとせしが、白刃振りて迫《せま》られ、勢《いきおい》敵《てき》しがたしとやおもいけん、また隠居所に入りぬ。六郎が母を殺しし人は、今もながらえたり。六郎が父殺しし人の、一瀬なりしことは、初知るものなかりしが、故《ことさ》らに迹《あと》を滅《け》さんと、きりこみし人々、皆其刀を礪《と》がせし中に、一瀬が刀の刃《は》二個処いちじるしくこぼれたるが、臼井が短刀のはのこぼれに吻合《ふんごう》したるより露《あら》われにき。六郎が父の首《くび》は人々持ちかえりしが、彼素肌にてつき殺されし人は、ずだずだに切《き》られて、頭さえ砕《くだ》けたりき。木村氏はそのおり臼井の邸に向いし一人なりしが、刃にちぬるに至らず、六郎が東京に出でて勤学《きんがく》せんといいしときも、親類《しんるい》のちなみありとて、共に旅立《たびだ》つこととなりぬ。六郎は東京にて山岡鉄舟の塾《じゅく》に入りて、撃剣《げきけん》を学び、木村氏は熊谷の裁判所に出勤《しゅっきん》したりしに、或る日六郎|尋《たづ》ねきて、撃剣の時|誤《あやま》りて肋骨《あばらぼね》一本折りたれば、しばしおん身が許《もと》にて保養《ほよう》したしという。さて持《も》てきし薬《くすり》など服《ふく》して、木村氏のもとにありしが、いつまでも手を空《むなし》くしてあるべきにあらねば、月給八円の雇吏《やとい》としぬ。その頃より六郎|酒色《しゅしょく》に酖《ふけ》りて、木村氏に借銭《しゃくせん》払わすること屡々《しばしば》なり。ややありて旅費《りょひ》を求《もと》めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所《にんしょ》へゆきし一瀬が跡《あと》追《お》いてゆかんに、旅費なければこれを獲《え》ぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕《つく》いしのみにて、夜な夜な撃剣のわざを鍛《きた》いぬ。任所にては一瀬を打つべき隙《ひま》なかりしかば、随《したが》いて東京に出で、さて望を遂《と》げぬ。その折の事は世のよく知る所なれば、ここにはいわず。臼井六郎も今は獄《ごく》を出でたり。獄中にて西教に
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