傾《かたむ》きたりといえば、彼コルシカ[#「コルシカ」に二重傍線]人の「ワンデツタ」に似《に》たる我邦|復讐《ふくしゅう》の事、いま奈何《いか》におもうらん。されど其母殺したりという人は、安《やす》き心もあらぬなるべし。きょうは女郎花《おみなえし》、桔梗《ききょう》など折来《おりき》たりて、再び瓶《かめ》にさしぬ。
二十五日、法科大学の学生なる丸山という人訪いく。米子の滝の勝《しょう》を語《かた》りて、ここへ来し途《みち》なる須坂より遠からずと教《おし》えらる。滝の話は、かねても聞きしことなれど、往て観《み》んとおもう心切なり。
二十六日、天|陰《くも》りて霧《きり》あり。きょうは米子に往かんと、かねて心がまえしたりしが、偶々《たまたま》信濃新報を見しに、処々の水害にかえり路の安からぬこと、かずかず書《か》きしるしたれば、最早《もはや》京に還るべき期も迫りたるに、ここに停《とど》まること久しきにすぎて、思いかけず期に遅《おく》るることなどあらんも計られずと、危《あや》ぶみおもいて、須坂に在りて待《ま》たんといわれし丸山氏のもとへ人をやりて謝し、急《いそ》ぎて豊野の方へいでたちぬ。この道《みち》は、はじめ来しおりの道よりは近きに下り坂なれば、人力車にてゆく。小布施という村にて、しばし憩《いこ》いぬ。このわたりの野に、鴨頭草のみおい出でて、目の及ぶかぎり碧《あお》きところあり、又秋萩の繁《しげ》りたる処あり。麻畑の傍《そば》を過ぐ、半ば刈《か》りたり。信濃川にいでて見るに船橋|断《た》えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路の壊《やぶ》れたるところ多し、又|仮《かり》に繕《つくろ》いたるのみなれば、そこに来るごとに車のあゆみを緩《ゆる》くす。近き流を見るに、濁浪《だくろう》岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。されど稲は皆|恙《つつが》なし。夜軽井沢の油屋にやどる。
二十七日、払暁|荷車《にぐるま》に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱に比《くら》ぶれば、はるかに勝《まさ》れり。固より撥条《バネ》なきことは同じけれど、壁なく天井《てんじょう》なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵《いた》る。嶺の路ここかしこに壊《やぶ》れたるところ多かりしが、そは皆かりに繕いたれば車通いしなり。横川よりゆくての方は、山の頽《くず》れおちて全く軌道を埋《うず》めたるあり、橋のおちたるありて、車かよわずといえば、鞋《わらじ》はきていず。軌道より左に折れてもとの街道をゆくに、これも断《た》えたる処あれば、山を踰《こ》え渓《たに》を渡りなどす。松井田より汽車に乗りて高崎に抵《いた》り、ここにて乗《の》りかえて新町につき、人力車を雇《やと》いて本庄にゆけば、上野までの汽車みち、阻礙なしといえり。汽車は日に晒《さら》したるに人を載することありて、そのおりの暑《あつ》さ堪えがたし、西国にてはさぞ甚しからん。このたびの如き変ある日には是非《ぜひ》なけれど、客をあまりに多く容《い》るるは、よからぬことなり。また車丁等には、上、中、下等の客というこころなくして、彼は洋服《ようふく》きたれば、定めてありがたき官員ならん、此は草鞋《わらじ》はきたれば、定めていやしき農夫ならんという想像《そうぞう》のみあるように見うけたり。上等、中等の室に入りて、切符《きっぷ》しらぶるにも、洋服きたる人とその同行者とは問《と》わずして、日本服のものはもらすことなかりき。また豊野の停車場にては、小荷物|預《あず》けんといいしに、聞届《ききとど》けがたしと、官員がほしていいしを、痛《いた》く責《せ》めしに、後には何事をいいても、いらえせずなりぬ。これとはうらうえなるは、松井田にて西洋人の乗《の》りしとき、車丁の荷物《にもつ》を持ちはこびたると、松井田より本庄まで汽車《きしゃ》のかよわぬ軌道を、洋服きたる人の妻子婢妾にとおらせ、猶|飽《あ》きたらでか、これを空《あ》きたる荷積汽車にのせて人に推《お》させたるなどなりき。渾《すべ》てこの旅の間に、洋服の勢力《せいりょく》あるを見しこと、幾度か知られず。茶店、旅宿などにても、極上等の座敷《ざしき》のたたみは洋服ならでは踏《ふ》みがたく、洋服着たる人は、後に来りて先ず飲食《いんしょく》することをも得つべし。茶代《ちゃだい》の多少などは第二段の論にて、最大大切なるは、服の和洋なり。旅《たび》せんものは心得置くべきことなり。されど奢《おご》るは益なし、洋服にてだにあらば、帆木綿《ほもめん》にてもよからん。白き上衣の、腋《わき》の下早や黄ばみたるを着たる人も、新しき浴衣《ゆかた》着たる人よりは崇《たっと》ばるるを見ぬ。
底本:「日本の名随筆15 旅」作品社
1983(昭和58)年9月2
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