》暮《く》るる頃山田の温泉に着《つ》きぬ。ここは山のかいにて、公道を距《さ》ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶《たえ》て見えず、僅に越後などより来りて浴《よく》する病人あるのみ。宿《やど》とすべき家を問うにふじえやというが善《よ》しという。まことは藤井屋なり。主人驚きて簷端《のきは》傾きたる家の一間払いて居らす。家のつくり、中庭を囲《かこ》みて四方に低き楼あり。中庭より直に楼に上るべき梯《はしご》かけたるなど西洋の裏屋《うらや》の如し。屋背は深き谿《たに》に臨めり。竹樹|茂《しげ》りて水見えねど、急湍の響《ひびき》は絶えず耳に入る。水桶《みずおけ》にひしゃく添えて、縁側《えんがわ》に置きたるも興あり。室の中央に炉《ろ》あり、火をおこして煮焚《にたき》す。されど熱しとも覚えず。食は野菜《やさい》のみ、魚とては此辺の渓川《たにがわ》にて捕らるるいわなというものの外、なにもなし。飯のそえものに野菜|煮《に》よといえば、砂糖《さとう》もて来たまいしかと問う。棒砂糖少し持てきたりしが、煮物に使《つか》わんこと惜《お》しければ、無しと答えぬ。茄子《なす》、胡豆《いんげん》など醤油のみにて煮て来ぬ。鰹節《かつおぶし》など加えぬ味頗|旨《むま》し。酒は麹味を脱せねどこれも旨し。燗《かん》をなすには屎壺《しゅびん》の形したる陶器《とうき》にいれて炉の灰に埋《うず》む。夕餉《ゆうげ》果てて後、寐牀のしろ恭《うやうや》しく求むるを幾許ぞと問えば一人一銭五厘という。蚊《か》なし。
 十九日、朝起きて、顔《かお》洗《あら》うべき所やあると問えば、家の前なる流《ながれ》を指さしぬ。ギヨオテ[#「ギヨオテ」に傍線]が伊太利紀行もおもい出でられておかし。温泉を環《めぐ》りて立てる家数三十戸ばかり、宿屋《やどや》は七戸のみ。湯壺は去年まで小屋掛《こやがけ》のようなるものにて、その側まで下駄《げた》はきてゆき、男女ともに入ることなりしが、今の混堂立ちて体裁《ていさい》も大に整《ととの》いたりという。人の浴するさまは外より見ゆ。うるさきは男女皆湯壺の周囲に臥して、手拭を身に纏い、湯を汲《く》みてその上に灌《そそ》ぐことなり。湯に入らんとするには、頸を超《こ》え、足を踏《ふ》みて進まざれば、終日側に立ちて待てども道開かぬことあり。男女の別は、男は多く仰《あお》ぎふし、女は多くうつふしになりたるなり。旅店の背《うしろ》なる山に登りて見るに、処々に清泉あり、水|清冽《せいれつ》なり。半腹に鳳山亭と※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]したる四阿屋《あずまや》の簷《のき》傾きたるあり、長野辺まで望見るべし。遠山の頂には雪を戴《いただ》きたるもあり。このめぐりの野は年毎に一たび焚《や》きて、木の繁《しげ》るを防ぎ、家畜飼う料に草を作る処なれば、女郎花《おみなえし》、桔梗《ききょう》、石竹《せきちく》などさき乱れたり。折りてかえりて筒《つつ》にさしぬ。午後泉に入りて蟹《かに》など捕えて遊ぶ。崖《がけ》を下りて渓川の流に近づかんとしたれど、路あまりに嶮《けわ》しければ止みぬ。渓川の向いは炭《すみ》焼《や》く人の往来する山なりという。いま流を渡りて来たる人に問うに、水浅しといえり。この日野山ゆくおりに被《かぶ》らばやとおもいて菅笠《すげがさ》買いぬ。都にてのように名の立たん憂はあらじ。
 二十日になりぬ。ここに足を駐《とど》めんときょうおもい定《さだ》めつ、爽旦《あさまだき》かねてききしいわなという魚《さかな》売《うり》に来たるを買《か》う、五尾十五銭。鯉も麓《ふもと》なる里より持《も》てきぬというを、一尾買いてゆうげの時まで活《いか》しおきぬ。流石《さすが》に信濃の国なれば、鮒をかしらにはあらざりけり、屋背《うしろ》の渓川は魚|栖《す》まず、ところのものは明礬《めんばん》多ければなりという。いわなの居る河は鳳山亭より左に下りたる処なり。そこへ往《ゆ》かんとて菅笠《すげがさ》いただき草鞋《わらじ》はきて出でたつ。車前草おい重りたる細径《こみち》を下りゆきて、土橋《どばし》ある処に至る。これ魚栖めりという流なり。苔《こけ》を被ぶりたる大石|乱立《らんりつ》したる間を、水は潜りぬけて流れおつ。足いと長き蜘蛛《くも》、ぬれたる巌《いわお》の間をわたれり、日暮るる頃まで岩に腰《こし》かけて休《やすら》い、携えたりし文など読む。夕餉《ゆうげ》の時老女あり菊の葉、茄子など油にてあげたるをもてきぬ。鯉、いわなと共にそえものとす。いわなは香味《こうみ》鮎《あゆ》に似たり。
 二十一日、あるじ来て物語《ものがたり》す。父《ちち》は東京にいでしことあれど、おのれは高田より北、吹上より南を知《し》らずという。東京の客《かく》のここへ来ることは、年《とし》に一たびあらんなどいえど、それも山
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