込んで、なるべくお旗本の中で相應な家へよめに往きたいと云つてゐた。それを山中が聞いて、伊織に世話をしようと云ふと、有竹では喜んで親元になつて嫁入をさせることにした。そこで房州うまれの内木氏のるんは有竹氏を冒して、外櫻田の戸田邸から番町の美濃部方へよめに來たのである。
 るんは美人と云ふ性の女ではない。もし床の間の置物のやうな物を美人としたら、るんは調法に出來た器具のやうな物であらう。體格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ拔けるやうに賢く、いつでもぼんやりして手を明けて居ると云ふことがない。顏も顴骨《くわんこつ》が稍出張つてゐるのが疵であるが、眉や目の間に才氣が溢れて見える。伊織は武藝が出來、學問の嗜もあつて、色の白い美男である。只此人には肝癪持と云ふ病があるだけである。さて二人が夫婦になつたところが、るんはひどく夫を好いて、手に据ゑるやうに大切にし、七十八歳になる夫の祖母にも、血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持つたと思つて滿足した。それで不斷の肝癪は全く迹を斂《をさ》めて、何事をも勘辨するやうになつてゐた。
 翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と言つてゐたが、主家の其時の當主松平石見守|乘穩《のりやす》が大番頭になつたので、自分も同時に大番組に入つた。これで伊織、七五郎の兄弟は同じ勤をすることになつたのである。
 此大番と云ふ役には、京都二條の城と大坂の城とに交代して詰めることがある。伊織が妻を娶つてから四年立つて、明和八年に松平石見守が二條在番の事になつた。そこで宮重七五郎が上京しなくてはならぬのに病氣であつた。當時は代人|差立《さしたて》と云ふことが出來たので、伊織が七五郎の代人として石見守に附いて上京することになつた。伊織は、丁度妊娠して臨月になつてゐるるんを江戸に殘して、明和八年四月に京都へ立つた。
 伊織は京都で其年の夏を無事に勤めたが、秋風の立ち初める頃、或る日寺町通の刀劍商の店で、質流れだと云ふ好い古刀を見出した。兼て好い刀が一腰欲しいと心掛けてゐたので、それを買ひたく思つたが、代金百五十兩と云ふのが、伊織の身に取つては容易ならぬ大金であつた。
 伊織は萬一の時の用心に、いつも百兩の金を胴卷に入れて體に附けてゐた。それを出すのは惜しくはない。しかし跡五十兩の才覺が出來ない。そこで百五十兩は高くはないと思ひながら、商
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