ぢいさんばあさん
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麻布龍土町《あざぶりゆうどちやう》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松平左七郎|乘羨《のりのぶ》と云ふ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、248−下−24]《あね》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 文化六年の春が暮れて行く頃であった。麻布龍土町《あざぶりゆうどちやう》の、今歩兵第三聯隊の兵營になつてゐる地所の南隣で、三河國奧殿の領主松平左七郎|乘羨《のりのぶ》と云ふ大名の邸の中に、大工が這入つて小さい明家《あきや》を修復してゐる。近所のものが誰の住まひになるのだと云つて聞けば、松平の家中の士《さむらひ》で、宮重久右衞門と云ふ人が隱居所を拵へるのだと云ふことである。なる程宮重の家の離座敷と云つても好いやうな明家で、只臺所だけが、小さいながらに、別に出來てゐたのである。近所のものが、そんなら久右衞門さんが隱居しなさるのだらうかと云つて聞けば、さうではないさうである。田舍にゐた久右衞門さんの兄きが出て來て這入るのだと云ふことである。
 四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云ふのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持つて、宮重方に著いて、すぐに隱居所に這入つた。久右衞門は胡麻鹽頭をしてゐるのに、此爺いさんは髮が眞白である。それでも腰などは少しも曲がつてゐない。結構な拵《こしらへ》の兩刀を挿《さ》した姿がなか/\立派である。どう見ても田舍者らしくはない。
 爺いさんが隱居所に這入つてから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人來て同居した。それも眞白な髮を小さい丸髷に結つてゐて、爺いさんに負けぬやうに品格が好い。それまでは久右衞門方の勝手から膳を運んでゐたのに、婆あさんが來て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするやうな工合に拵へることになつた。
 此|翁媼《をうをん》二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であつたら、どうも平氣で見てゐることが出來まいなどと云つた。中
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