そめちがへ
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)五月雨《さみだれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)末|縺《もつ》れて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》
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 時節は五月雨《さみだれ》のまだ思切《おもいきり》悪く昨夕《ゆうべ》より小止《おやみ》なく降りて、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《れんじ》の下《もと》に四足踏伸ばしたる猫《ねこ》懶《ものう》くして起《た》たんともせず、夜更《よふけ》て酔はされし酒に、明《あけ》近くからぐつすり眠り、朝飯《あさめし》と午餉《ひるめし》とを一つに片付けたる兼吉《かねきち》が、浴衣《ゆかた》脱捨てて引つ掛くる衣は紺《こん》にあめ入の明石《あかし》、唐繻子《とうじゅす》の丸帯うるささうに締《し》め畢《おわ》り、何処《どこ》かけんのある顔の眉《まゆ》蹙《しか》めて、四分珠《しぶだま》の金釵《きんかん》もて結髪《むすびがみ》の頭をやけに掻き、それもこれも私がいつもののんきで、気が付かずにゐたからの事、人を恨むには当りませぬと、長火鉢《ながひばち》の前に煙草《タバコ》喫《の》みゐるお上《かみ》に暇乞《いとまごい》して帰らんとする、代地に名うての待合《まちあい》朝倉《あさくら》の戸口を開けて、つと入り来るは四十近いでつぷり太つた男、白の縞上布《しまじょうふ》の帷子《かたびら》の襟《えり》寛《くつろ》げて、寄道《よりみち》したお蔭にこの悪い道を歩かせられしため暑さも一入《ひとしお》なり、悪いといへば兼吉つあんの顔色の悪さ、一通りの事ではなささうなり、今から帰るでもあるまじ、不肖《ふしょう》して己《おれ》に附き合ひ喫み直してはと遠慮なき勧《すすめ》に、お上《かみ》が指図して案内《あない》さするは二階の六畳、三谷《さんや》さんなればと返事待つまでもなくお万《まん》に口を掛け、暫《しばら》くは差向《さしむかい》にて、聞けば塞《ふさ》ぐも無理ならず、昨夕は御存じの親方呼びに遣《や》りしに、詰らぬ行掛りの末|縺《もつ》れて、何《なに》、人《ひと》を、そんなつひ通《とおり》の分疏《いいわけ》を聞くあたいだとお思ひか、帰るならお帰りと心強くいなせしに、一座では口もろくに利《き》かぬあの喰《くわ》せもののお徳《とく》め、途《みち》で待ち受けて連《つ》れ往《ゆ》きしを今朝聞いた悔《く》やしさ、親方の意気地《いくじ》なしは今始まつたではなけれど、私の気にもなつて見て下され、未練ではござりませぬ、唯《た》だ業《ごう》が沸《に》えてなりませぬ、親方の帰つた迹《あと》ではいつもの柳連《やなぎれん》の二人が来てゐたこととて、附景気《つけげいき》で面白さうに騒がれるだけ騒ぎ、毒と知りながら、麦酒《ビール》に酒|雑《ま》ぜてのぐい喫《のみ》、いまだに頭痛がしてなりませぬとの事なり、兼吉がこの話の内、半熟の卵に焼塩添へて女の持ち運びし杯盤《はいばん》は、幾らか気色を直し肝癪《かんしゃく》を和《やわら》ぐる媒《なかだち》となり、失せた血色の目の縁《ふち》に上《のぼ》る頃、お万が客は口軽く、未練がないとはさすがは兼吉つあんだ、好く言つた、相手が相手ゆゑお前に実《じつ》がないとこの三谷が誰にも言はせぬ、さういふ時の第一の薬は何でもしたい事をして遊ぶに限る、あれならといふ人はないか、おれには差当り心当はなけれど、中屋《なかや》の松《まっ》つあんなどはどうだらうといへば、兼吉は寂《さび》しくほほと笑ひ、あんまり未練がなさ過ぎるか知れませねど、腹にあるだけ言つてしまひたいのは私の癖《くせ》、中屋とまでいはれては黙つてはゐられませぬ、松つあんならぬ弟の清《せい》さん、浮気らしいがあの人なら一日でも遊んで見たいと兼て思つてをりました、なるほどさうありさうな事ではあれど、弟の方にはしかもお前の友達の小花《こはな》といふ色があるではないか、頼まれもせぬにおれから言ひ出し、今更ら理窟をいふではなけれど、噂《うわさ》に聞けば小花と清二《せいじ》とは、商売用で荻江《おぎえ》の内へ往き始めし比《ころ》、いつとなく出来た仲だとやら、その上《うえ》松《まっ》つあんよりは捌《さば》けてゐるやうでも、あの生真面目《きまじめ》さ加減では覚束《おぼつか》ない、どうやら常談《じょうだん》らしくもないお前の返詞《へんじ》がおれの腹に落ち兼ねる、お前は本当に清さんを呼ばせる気か、はい本当に呼んでおもらひ申す気でございます、小花さんに済まぬとは私にも熟《よ》く分つてをれど、清さんならと思ふも疾《と》うからなれば、さうなる日には小花さんにはかうと思ひ定めてゐるも疾うから、お徳さんなぞのやうにけちなことは私はせぬ、私の心を打ち開けた上で、清さんは何とおいひか知らねど、嫌とならそれまでの事、万に一つも聞いてもらはれたら、それから先は清さんの心次第、お前の親切に絆《ほだ》されて一旦かうはなつたれど、それでは小花に義理が立たぬ、これきり思ひ切れとなら、思ひ切つて小花さんに立派に謝《あやま》る分《ぶん》のこと、清さんに限つて小花さんを私《わたし》に見変へるといふはずはなけれど、さうなれば私は命も何も入《い》りませぬ、それぢや命掛といふのだね、凄《すご》い話になつて来た、己なんぞの目ぢやあ、色の浅黒い痩《やせ》つぽちの小花より女は遙《はるか》兼ちやんが上だ、清こうは慥《たし》か二十五でお前には一つ二つの弟、可哀《かあい》がられて夢中になつた日には小花には気の毒なれど、呼ぶだけは己が呼ぶ、跡は兼吉つあんの腕次第だと、座を外《はず》してゐた女を呼んで使の事を頼めば、銚子《ちょうし》持つて立出づる廊下の摩《す》れ違《ちが》ひさま、兼吉ねえさんが、ああ下で聞いてよと入り来るはお万なり、髪は文金《ぶんきん》帷子《かたびら》は御納戸地《おなんどぢ》に大名縞《だいみょうじま》といふ拵《こしらえ》、好《よ》く稼《かせ》ぐとは偽《うそ》か真《まこと》か、肉置《ししおき》善き体ながらどちらかといへば面長《おもなが》の方なるに、杯洗《はいせん》の上に俯《うつむ》いてどつちが円いかしらなどとはどういふ心か、荻江の文子《ふみこ》さんが来て、小竹《こたけ》も梅子《うめこ》も内に遊んでゐましたといふに、そんなら呼べと座は遽《にわか》に賑《にぎや》かになりぬ、三谷が梅子に可哀さうに風を引いてゐるといへば、お万引き取りて、この子の寝ざうといつたらございませぬ、それに幾らねんねでも、先刻《さっき》も文子さんが遊びに来ると、鼻をかまうかしらと相談してと笑ふ、三谷色気がない内が妙だといへば、兼吉がそこ処《どこ》は受け合はれませぬ、竹ちやんが岡惚帳《おかぼれちょう》拵《こしら》へれば、いいえあら嫌なんてつたつて話すわ、梅ちやんも人真似をして、ためになるお客の上には大の字、気に入つたお客の上には上の字が幾つも重ねて附けてあるといふ、三谷|己《おれ》の名は上の字が十ばかりあるはずとからかへば、沢山附いてますと笑ふは痩ぎすの小竹、あら大の字の方だわと正直にいふは靨《えくぼ》の梅子、上の字なんぞ附けてはお万ねえさんに悪いわねえとは、ちびの文子なかなかませたり、下から来た女に堀田原《ほったはら》の使はと問へばまだといふに、追《お》ひ駈《か》けてまた人を遣り、あの竪樋《たてどい》の音に負けぬやうにと、三谷が得意の一中《いっちゅう》始まりて、日の暮るるをも知らざりけり、そもそも堀田原の中屋《なかや》といつぱ、ここらには熟《よ》く知れ渡りたる競呉服《せりごふく》にて、今こそ帝国意匠会社などいふ仰山《ぎょうさん》なものも出来たれ、凝つた好《このみ》といへばこの中屋に極はまれり、二番息子の清二郎へ朝倉より雨を衝《つ》いての迎《むかえ》に、お客はと尋ねれば三谷さんに兼吉さんがお出《いで》とばかり好く分らず、呼びに遣りし車の来ぬ内再度の使|忙《せわ》しければ、ともかくも直《じ》きにと荻江まで附けさせ、お幾婆《いくばあ》さんに何であらうと相談すればここでもわからず、そんな噂はなかりしが兼吉さんが引《ひ》つ籠《こ》むので浴衣の誂《あつらえ》でもあるのか知らぬとのみ、家の娘お浅《あさ》の小花さんが待つてお出《いで》なれば帰にはお寄《より》でせうねといふを後《うしろ》に聞きて、朝倉に来《こ》しは点燈頃《ひともしごろ》なり、こちらは一中を二段まで聞かせられ、夕飯もそのまま済ました処、本人の兼吉のみか、待つ人の来ぬは心落着かぬもの、文子は畳の上に置いた団扇《うちわ》を団扇で打ち、下のが上のに着いて上がるを不思議なことででもあるやうに、厭《あ》きずに繰り返してをれば、梅子は枝豆の甘皮《あまかわ》を酸漿《ほおずき》のやうに拵《こしら》へ、口の所を指尖《ゆびさき》に撮《つま》み、額《ぬか》に当ててぱちぱちと鳴らしてゐる、そこへ下より清さんがお出《いで》ですとの知らせと共に、梯《はしご》を上り来る清二郎が拵は細上布《ほそじょうふ》の帷子《かたびら》、ひんなりとした男振《おとこぶり》にて綛《かすり》の藍《あい》に引つ立つて見ゆる色の白さ、先づ一杯と盃《さかずき》差したる三谷が、七分の酔を帯びたる顔に笑《わらい》を含み、御苦労を願つたは私の用といふでもなく、例の商用といふでもなし、ここにゐる兼吉さんから委細の話は直《じき》にあるはず、一口に申せば何でもない事、ただもう清さん恋しやほうやれほといふやうなわけと、何だか分りにくい言草《いいぐさ》に兼吉気の毒がり、一中も最《も》う沢山、可哀さうに私だつてまだ気が狂ふには間があります、なにね清さん詰まらない事なのよ、そりやあさうと清さん今夜は別に用がないなら緩《ゆっく》り遊んでお出《いで》なさいなと、さすがに極《きま》り悪《わ》るげな処へ、兼ての手筈《てはず》に女の来てちよつとこちらへと案内するは、同じ二階の四畳半に網行燈《あみあんどう》微暗《ほのくら》く、蚊《か》の少き土地とて蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》は弔《つ》らねど、布団《ふとん》一つに枕二つ、こりや場所が違ひませうと、清二郎の出ようとするを留《とど》めるは兼吉、胸のみ頻《しき》りに騒がれて、昨夕《ゆうべ》から喫《の》んだ酒の俄《にわか》に頭に上《のぼ》る心地、切角《せっかく》これまで縒《よ》り掛けながら、日頃の願の縁の糸が結ばれようか切れようか、死ぬるか生きるか、極《き》まるは今の束《つか》の間《ま》と思案するもまた束の間、心は※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》語《ことば》は冰《こおり》、ほほほほほ出抜《だしぬけ》だから胆《きも》をお潰《つぶ》しだらうね、話せば直《じき》に分る事ゆゑ、まあちよつと下にゐて下されと、枕頭《まくらもと》の烟草盆を間に置いて二人は坐りぬ、姉さんがさう仰《おっし》やるからは定めてわけがございませうが、お迎の時からこの間《ま》に来るまで、何だか知れぬ事だらけで、夢を見るやうな気がしてなりませぬ、一体これはどうした次第と、いひながら取り出すは古代木綿の烟草入、徐《しずか》に一服吸ひ付くるをぢつと見つめて募るは恋、おや清さんの烟管《キセル》も伊勢新なのねえ、ええこれはといひ掛けしが、これは小花と揃《そろい》とは言ひ兼ねてか口籠《くちごも》る愛らしさ、ほんに私《わたし》の好《い》い気な事ねえ、清さんに話をするつてぼんやりしてゐてさ、話といふのも本当は大袈裟《おおげさ》な位と、兼吉の言ひ出すを聞けば、この雨の日の退屈まぎれ、三谷さんが兼ちやんも誰か呼んで遊べといひしに、呼ぶ人がないといつたら松つあんではどうだとの事、私がつひ松つあんより清さんが好いといつたが起《おこり》、小花さんといふもののある清さんの名を指したのがいかにもづうづうしい、どうでも清さんと寝かして困らせて遣《や》ると言ひ張り、とうとうここにお前さんを連れ寄せて済みませねど、唯少しの間《ま》横にだけなつてゐて下され
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