もその外《ほか》にはござなく候、返す返すも羨《うらや》ましきは清さんのやうな人をお持なされ候ふお前様の身の上にて、たとひどのやうに憂《う》いつらいと思ふ事ありとも、その憂いつらいは頼《たのみ》になる清さんのやうな優しい人を持たぬものの憂さつらさに比べては何でもないと、よくよく御勘弁なさるべく候、また私の事はこの上未練がましく申したくはなく候へども、今までも不身持な女子《おなご》のこの末はどうなり申すべきか、我身で我身が分り申さず、どうして私はかうなつたやら、どうして私はどうならうか知れぬやら、それはお前様に申しても甲斐《かい》なき事と致し候うて、ここに一つ申し置き候ふは、もし少しにてもこの文の心|御解《おわかり》なされ候はば、昨夕罪のない清さんを罪に堕《おと》さなかつたのは兼吉だ、よしや兼吉が心から罪に堕すまいと思つてではないにしても、罪に堕すことの出来ぬやうな何とも知れぬ心に兼吉はなることがあつたといふ事ばかりに候、この後清さんには指もさすまいと思ふ私に候へば、つひ何事もなかつたやうに御附合のほど祈り入り参らせ候かしく、なほなほこの手紙|御取棄《おんとりすて》なされ候ふとも、清さんに
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