風の立ち初《そ》める頃、或る日寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う好い古刀を見出した。兼《かね》て好《い》い刀が一|腰《こし》欲しいと心掛けていたので、それを買いたく思ったが、代金百五十両と云うのが、伊織の身に取っては容易ならぬ大金であった。
伊織は万一の時の用心に、いつも百両の金を胴巻に入れて体に附けていた。それを出すのは惜しくはない。しかし跡五十両の才覚が出来ない。そこで百五十両は高くはないと思いながら、商人にいろいろ説いて、とうとう百三十両までに負けて貰うことにして、買い取る約束をした。三十両は借財をする積《つもり》なのである。
伊織が金を借りた人は相番《あいばん》の下島《しもじま》甚右衛門と云うものである。平生親しくはせぬが、工面《くめん》の好いと云うことを聞いていた。そこでこの下島に三十両借りて刀を手に入れ、拵えを直しに遣《や》った。
そのうち刀が出来て来たので、伊織はひどく嬉しく思って、あたかも好し八月十五夜に、親しい友達柳原小兵衛等二三人を招いて、刀の披露旁馳走《ひろうかたがたちそう》をした。友達は皆刀を褒《ほ》めた。酒|酣《たけなわ》になった頃、ふと下島がその席へ来合せた。めったに来ぬ人なので、伊織は金の催促に来たのではないかと、先《ま》ず不快に思った。しかし金を借りた義理があるので、杯《さかずき》をさして団欒《まとい》に入れた。
暫《しばら》く話をしているうちに、下島の詞《ことば》に何となく角があるのに、一同気が附いた。下島は金の催促に来たのではないが、自分の用立てた金で買った刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思って、わざと酒宴の最中に尋ねて来たのである。
下島は二言三言《ふたことみこと》伊織と言い合っているうちに、とうとうこう云う事を言った。「刀は御奉公のために大切な品だから、随分借財をして買っても好かろう。しかしそれに結構な拵をするのは贅沢《ぜいたく》だ。その上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」と云った。
この詞の意味よりも、下島の冷笑を帯びた語気が、いかにも聞き苦しかったので、俯向《うつむ》いて聞いていた伊織は勿論《もちろん》、一座の友達が皆不快に思った。
伊織は顔を挙げて云った。「只今のお詞は確に承った。その御返事はいずれ恩借の金子《きんす》を持参した上で、改《あらため》て申上げる。親しい間柄と云いながら、今晩わざわざ請待した客の手前がある。どうぞこの席はこれでお立下されい」と云った。
下島は面色《かおいろ》が変った。「そうか。返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返《けかえ》した。
「これは」と云って、伊織は傍《はた》にあった刀を取って立った。伊織の面色はこの時変っていた。
伊織と下島とが向き合って立って、二人が目と目を見合わせた時、下島が一言「たわけ」と叫んだ。その声と共に、伊織の手に白刃《しらは》が閃《ひらめ》いて、下島は額を一|刀《とう》切られた。
下島は切られながら刀を抜いたが、伊織に刃向うかと思うと、そうでなく、白刃を提《ひっさ》げたまま、身を飜《ひるがえ》して玄関へ逃げた。
伊織が続いて出ると、脇差を抜いた下島の仲間《ちゅうげん》が立ち塞《ふさ》がった。「退《の》け」と叫んだ伊織の横に払った刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
その隙《ひま》に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛《ひととび》に追い縋《すが》ろうとした時、跡から附いて来た柳原小兵衛が、「逃げるなら逃がせい」と云いつつ、背後《うしろ》からしっかり抱き締めた。相手が死なずに済んだなら、伊織の罪が軽減せられるだろうと思ったからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しおしおと座に返った。そして黙って俯向いた。
柳原は伊織の向いにすわって云った。「今晩の事は己《おれ》を始、一同が見ていた。いかにも勘弁出来ぬと云えばそれまでだ。しかし先へ刀を抜いた所存を、一応聞いて置きたい」と云った。
伊織は目に涙を浮べて暫く答えずにいたが、口を開いて一首の歌を誦《じゅ》した。
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「いまさらに何《なに》とか云はむ黒髪《くろかみ》の
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創《きず》が存外重くて、二三日立って死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉《かど》を以て、知行《ちぎょう》召放され、有馬左兵衛佐允純《ありまさひょうえのすけまさずみ》へ永《なが》の御預仰付らる」と云うことであった。伊織が幸橋外《さいわいばしそと》の有馬邸から、越前国《えちぜんのくに》丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
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