残った美濃部家の家族は、それぞれ親類が引き取った。伊織の祖母|貞松院《ていしょういん》は宮重七五郎方に往き、父の顔を見ることの出来なかった嫡子|平内《へいない》と、妻るんとは有竹の分家になっている笠原新八郎方に往った。
二年程立って、貞松院が寂しがってよめの所へ一しょになったが、間もなく八十三歳で、病気と云う程の容体《ようだい》もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡《ほうそう》で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
るんは祖母をも息子をも、力の限《かぎり》介抱して臨終を見届け、松泉寺に葬った。そこでるんは一生武家奉公をしようと思い立って、世話になっている笠原を始、親類に奉公先を捜すことを頼んだ。
暫く立つと、有竹氏の主家《しゅうけ》戸田淡路守|氏養《うじやす》の隣邸、筑前国《ちくぜんのくに》福岡の領主黒田家の当主松平筑前守|治之《はるゆき》の奥で、物馴れた女中を欲しがっていると云う噂が聞えた。笠原は人を頼んで、そこへるんを目見《めみ》えに遣った。氏養と云うのは、六年前に氏之の跡を続《つ》いだ戸田家の当主である。
黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇い入れた。これが安永六年の春であった。
るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めていて、治之《はるゆき》、治高《はるたか》、斉隆《なりたか》、斉清《なりきよ》の四代の奥方に仕え、表使格《おもてづかいかく》に進められ、隠居して終身二|人扶持《にんふち》を貰うことになった。この間るんは給料の中《うち》から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華《こうげ》を絶やさなかった。
隠居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取ったが、間もなく故郷の安房へ帰った。当時の朝夷郡真門村で、今の安房郡|江見村《えみむら》である。
その翌年の文化六年に、越前国丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や剣術を教えて暮していた夫伊織が、「三月八日|浚明院殿御追善《しゅんめいいんでんごついぜん》の為、御慈悲の思召を以て、永《なが》の御預御免仰出《おあずけごめんおおせいだ》され」て、江戸へ帰ることになった。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ来て、竜土町の家で、三十七年振に再会したのである。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日発行
1985(昭和60)年5月20日36刷改版
1994(平成6)年12月15日54刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2005年1月7日作成
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