《もっ》て褒美《ほうび》として銀十枚下し置かる」と云う口上であった。
 今年の暮には、西丸にいた大納言|家慶《いえよし》と有栖川職仁親王《ありすがわよしひとしんのう》の女楽宮《じょらくみや》との婚儀などがあったので、頂戴物《ちょうだいもの》をする人数《にんず》が例年よりも多かったが、宮重の隠居所の婆あさんに銀十枚を下さったのだけは、異数《いすう》として世間に評判せられた。
 これがために宮重の隠居所の翁媼二人は、一時江戸に名高くなった。爺いさんは元大番|石川阿波守総恒組美濃部伊織《いしかわあわのかみふさつねくみみのべいおり》と云って、宮重久右衛門の実兄である。婆あさんは伊織の妻るんと云って、外桜田《そとさくらだ》の黒田家の奥に仕えて表使格《おもてづかいかく》になっていた女中である。るんが褒美を貰った時、夫伊織は七十二歳、るん自身は七十一歳であった。

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 明和三年に大番頭《おおばんがしら》になった石川阿波守総恒の組に、美濃部伊織と云う士《さむらい》があった。剣術は儕輩《せいはい》を抜いていて、手跡も好く和歌の嗜《たしなみ》もあった。石川の邸は水道橋外で、今|白山《はくさん》から来る電車が、お茶の水を降りて来る電車と行き逢う辺《あたり》の角屋敷《かどやしき》になっていた。しかし伊織は番町《ばんちょう》に住んでいたので、上役とは詰所で落ち合うのみであった。
 石川が大番頭になった年の翌年の春、伊織の叔母婿《おばむこ》で、やはり大番を勤めている山中藤右衛門と云うのが、丁度三十歳になる伊織に妻を世話をした。それは山中の妻の親戚《しんせき》に、戸田|淡路守氏之《あわじのかみうじゆき》の家来|有竹某《ありたけぼう》と云うものがあって、その有竹のよめの姉を世話したのである。
 なぜ妹が先によめに往《い》って、姉が残っていたかと云うと、それは姉が邸奉公をしていたからである。素《もと》二人の女は安房国朝夷郡真門村《あわのくにあさいごおりまかどむら》で由緒のある内木四郎右衛門《うちきしろえもん》と云うものの娘で、姉のるんは宝暦《ほうれき》二年十四歳で、市ヶ谷門外の尾張中納言宗勝《おわりちゅうなごんむねかつ》の奥の軽い召使になった。それから宝暦十一年|尾州家《びしゅうけ》では代替《だいがわり》があって、宗睦《むねちか》の世になったが、るんは続いて奉公していて、とうとう明和三年まで十四年間勤めた。その留守に妹は戸田の家来有竹の息子の妻になって、外桜田の邸へ来たのである。
 尾州家から下がったるんは二十九歳で、二十四歳になる妹の所へ手助《てだすけ》に入り込んで、なるべくお旗本の中《うち》で相応な家へよめに往きたいと云っていた。それを山中が聞いて、伊織に世話をしようと云うと、有竹では喜んで親元になって嫁入をさせることにした。そこで房州《ぼうしゅう》うまれの内木|氏《うじ》のるんは有竹氏を冒《おか》して、外桜田の戸田邸から番町の美濃部方へよめに来たのである。
 るんは美人と云う性《たち》の女ではない。若《も》し床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法に出来た器具のような物であろう。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨《かんこつ》が稍《やや》出張っているのが疵《きず》であるが、眉《まゆ》や目の間に才気が溢《あふ》れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持《かんしゃくもち》と云う病があるだけである。さて二人が夫婦になったところが、るんはひどく夫を好いて、手に据えるように大切にし、七十八歳になる夫の祖母にも、血を分けたものも及ばぬ程やさしくするので、伊織は好い女房を持ったと思って満足した。それで不断の肝癪は全く迹《あと》を斂《おさ》めて、何事をも勘弁するようになっていた。
 翌年は明和五年で伊織の弟宮重はまだ七五郎と云っていたが、主家《しゅうけ》のその時の当主松平|石見守乗穏《いわみのかみのりやす》が大番頭になったので、自分も同時に大番組に入《い》った。これで伊織、七五郎の兄弟は同じ勤をすることになったのである。
 この大番と云う役には、京都二条の城と大坂の城とに交代して詰めることがある。伊織が妻を娶《めと》ってから四年立って、明和八年に松平石見守が二条在番の事になった。そこで宮重七五郎が上京しなくてはならぬのに病気であった。当時は代人差立《だいにんさしたて》と云うことが出来たので、伊織が七五郎の代人として石見守に附いて上京することになった。伊織は、丁度|妊娠《にんしん》して臨月になっているるんを江戸に残して、明和八年四月に京都へ立った。
 伊織は京都でその年の夏を無事に勤めたが、秋
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