Jえている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽《ふけ》っているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮《いちとひ》時宜《じぎ》に合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛《たた》えて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。
秀麿は父の詞《ことば》を一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容《あいい》れない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧《そうまい》の世に一
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