走ッの造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識《し》らず、頑冥《がんめい》な人物や、仮面を被《かむ》った思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。
 こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核《さね》を蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此《これ》を維持して行くのが、学者の務《つとめ》だと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。
 そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋《ふた》を、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうよ
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