フ時雪の締めて置いた戸を、廊下の方からあらあらしく開けて、茶の天鵞絨《びろうど》の服を着た、秀麿と同年位の男が、駆け込むように這入って来て、いきなり雪の肩を、太った赤い手で押えた。「おい、雪。若檀那の顔ばかり見ていて、取次をするのを忘れては困るじゃないか。」
 雪の顔は真っ赤になった。そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。
 秀麿の眉間《みけん》には、注意して見なくては見えない程の皺《しわ》が寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目《ごくまじめ》になっている。「君つまらない笑談《じょうだん》は、僕の所でだけはよしてくれ給え。」
「劈頭《へきとう》第一に小言を食わせるなんぞは驚いたね。気持の好い天気だぜ。君の内の親玉なんぞは、秋晴《しゅうせい》とかなんとか云うのだろう。尤《もっと》もセゾンはもう冬かも知れないが、過渡時代には、冬の日になったり、秋の日になったりするのだ。きょうはまだ秋だとして置くね。どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増《としま》の美人のようなものだね。こんな日に※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》のようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯《ふ》さっていなかっただけを、僕は褒《ほ》めて置くね。」
 秀麿は真面目ではあるが、厭《いや》がりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌《しゃべ》り立てている綾小路の様子を見ている。簡単に言えば、この男には餓鬼《がき》大将と云う表情がある。額際《ひたいぎわ》から顱頂《ろちょう》へ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後《うしろ》へ向けて掻《か》き上げたのが、日本画にかく野猪《いのしし》の毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻《めじり》に、嘲笑《ちょうしょう》的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧《かっこ》に似た、深い皺を寄せている。
 綾小路はまだ饒舌る。「そんなに僕の顔ばかし見給うな。心中大いに僕を軽侮しているのだろう。好いじゃないか。君がロアで、僕がブッフォンか。ドイツ語でホオフナルと云うのだ。陛下の倡優《
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