オょうゆう》を以《もっ》て遇する所か。」
 秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」
「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」
「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語《ひとりごと》のようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注《つ》ぎ込むように感じるものだから。」
「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩《す》った。
「メルシイ」と云って綾小路が吸い附けた。
「暖かい所が好かろう」と云って、秀麿は椅子を一つ煖炉の前に押し遣った。
 綾小路は椅背《きはい》に手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓《テエブル》の上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴《かりとじ》の洋書に目を着けた。傍《かたわら》には幅の広い篦《へら》のような形をした、鼈甲《べっこう》の紙切小刀《かみきりこがたな》が置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。

     ――――――――――――――――

 綾小路は学習院を秀麿と同期で通過した男である。秀麿は大学に行くのに、綾小路は画かきになると云って、溜池《ためいけ》の洋画研究所へ通い始めた。それから秀麿がまだ文科にいるうちに、綾小路は先へ洋行して、パリイにいた。秀麿がマルセイユから上陸して、ベルリンへ行く途中で、二三日パリイに滞在していた時には、親切に世話を焼いて、シャン・ゼリゼェの散歩やら、テアアトル・フランセェとジムナアズ・ドラマチックとの芝居見物やら、時間を吝《おし》まずに案内をして歩いて、ベルリンへ行ってから著《き》る服まで誂《あつら》えさせてくれた。
 綾小路は目と耳とばかりで生活しているような男で、芸術をさえ余り真面目には取り扱っていないが、明敏な頭脳がいつも何物にか饑《う》えている。それで故郷へ帰って以来引き籠り勝にしている秀麿の方からは、尋ねても行かぬのに、折々遊びに来て、秀麿の読んでいる本の話を、口ではちゃかしながら、真面目に聞いて考えても見るのである。
 綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」
 そこへ雪が橢円形《だえんけい》のニッケル盆に香茶《こうちゃ》の道具
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