ヘず》はない。これだけの事を完成するのは、極《きわめ》て容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢《あえ》てする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵《ちり》を中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結《はんけつ》している暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙《さまた》げられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞《ふさ》いで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。
「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。
 丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待って、雪が這入って来た。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向《あおむ》いているのが、ひどく可哀らしい。秀麿が帰った当座、雪はまだ西洋室で用をしたことがなかったので、開けた戸を、内からしゃがんで締めて、絨緞の上に手を衝いて物を言った。秀麿は驚いて、笑顔をして西洋室での行儀を教えて遣った。なんでも一度言って聞せると、しっかり覚えて、その次の度《たび》からは慣れたもののようにするのである。
 煖炉を背にして立って、戸口を這入った雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチックの方面の生活のまるで瞑《ねむ》っている秀麿が、平和ではあっても陰気なこの家で、心から爽快《そうかい》を覚えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云っても好い位である。
「綾小路《あやこうじ》さんがいらっしゃいました」と、雪は籠《かご》の中の小鳥が人を見るように、くりくりした目の瞳《ひとみ》を秀麿の顔に向けて云った。雪は若檀那《わかだんな》様に物を言う機会が生ずる度に、胸の中で凱歌《がいか》の声が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝しているのである。
 こ
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