のが、今になつてはちつとも船に当らないのでございます。風はこゝまでは参りません。なぜといふにあなたも先刻御覧になつたやうに、渦巻の縁の波頭の帯は、あたりまへの海面よりは余程低いのでございます。あたりまへの海は高い、真黒な山の背の様に、背後《うしろ》に立つてゐるのでございます。あなた方のやうに、海でひどい暴風《あらし》なんぞに逢つたことのないお方は、風があたつて波のしぶきを被せられるので、どの位気が狂ふものだといふことを、御存じないだらうと存じます。波のしぶきに包まれて物を見ることも、物を聞くことも出来なくなりますと、半分窒息し掛かるやうな心持になりまして、何を考へようにも、何をしようにも、気力が無くなつてしまふものでございます。さういふうるさい心持が、このときあらかた無くなつてしまつたのでございますね。譬へて見ますると、今迄牢屋に入れて置いて、どういふ処分になるか知れなかつた罪人に、愈々死刑を宣告してしまふと、役人も多少その人を楽な目に逢はせてやるやうにしますが、まあ、あんなものでございますね。」
「わたくし共は波頭の帯の所を何遍廻つたか知りません。なんでも一時間位は走つてゐました。滑るやうにといふよりは、飛ぶやうにといひたい位な走り方でございました。そして段々渦巻の中の方へ寄つて来まして、次第に恐ろしい内側の縁の所に近寄るのでございます。」
「この間わたくしは檣の根に打つてある鐶を掴んで放さずにゐました。兄きはデツクの艫の方にゐまして、舵の台に縛り付けた、小さい水樽の虚《から》になつてゐたのに、噛り付いてゐたのでございます。その水樽は、船が最初に暴風に打つ附かつたとき、船の中の物がみな浚つて行かれたのに、たつた一つ残つてゐたのでございますね。」
「そこで渦巻の内側の縁に近寄つて来ましたとき、兄きはその樽から手を放してしまつて、行きなり来てわたくしの掴んでゐる鐶を掴むのです。それが二人で掴んでゐられる程大い鐶ではないのでございます。兄きは死にもの狂ひになつて、その鐶を自分で取らうとして、それに掴まつてゐるわたくしの手を放させるやうにするのでございます。兄きがこんなことをしましたとき程、わたくしは悲しい心持をしたことはございません。無論兄きは恐ろしさに気が狂つて為《し》たことだとは知つてゐましたが、それでもわたくしはひどく悲しく思ひました。」
「併しわたくしはその鐶を兄きと争ふやうな気は少しも持つてゐなかつたのでございます。わたくしはそのとき、もうどこにつかまつてゐても同じことだと思つてゐたのでございます。そこで鐶を兄きに掴ませてしまつて、わたくしはデツクの艫の方へ這つて行つて樽につかまりました。そんな風に兄きと入り代るのは存外|容易《やさ》しうございました。勿論船は、渦巻が大きく湧き立つてゐる為めに、大きく揺れてはゐましたが、兎に角船は竜骨の方向に、頗る滑らかにすべつて行くのでございますから。」
「わたくしが、漸《や》つと樽につかまつたと思ひますと、船は突然真逆様に渦巻の底の方へ引き入れられて行くやうに思はれました。わたくしは短い祈祷の詞を唱へまして、いよ/\これがおしまひだなと思ひました。」
「船が沈んで行くとき、わたくしはひどく気分が悪くなりましたので、無意識に今までより強く樽にしがみ付いて、目を瞑《ねむ》つてゐました。数秒間の間は、今死ぬるか今死ぬるかと待つてゐて、目を開かずにゐました。所が、どうしても体が水に漬かつて窒息するやうな様子が見えて来ませんのでございます。幾秒も幾秒も立ちます。わたくしは依然として生きてゐるのでございます。落ちて行くといふ感じが無くなつて船の運動が、さつき波頭の帯の所を走つてゐたときと同じやうになつたらしく感じました。只違つてゐるのは、今度は今までよりも縦の方向が勝つて走るのでございます。わたくしは胆《たん》を据ゑて目を開いて周囲《まはり》の様子を見ました。」
「その時の恐ろしかつた事、気味の悪かつた事、それから感嘆した事は、わたくしは生涯忘れることが出来ません。船は不思議な力で抑留せられたやうに、沈んで行かうとする半途で、恐ろしく大きい、限りなく深い漏斗の内面の中間に引つ掛かつてゐるのでございます。若しこの漏斗の壁が目の廻るほどの速度で、動いてゐなかつたら、この漏斗の壁は、磨き立つた黒檀の板で張つてあるかとも思はれさうな位平らなものでございます。その平らな壁面が気味の悪い、目映い光を反射してをります。それはさつきお話し申した空のまんまるい雲の穴から、満月の光が、黄金《こがね》を篩《ふる》ふやうにさして来て、真黒な壁を、上から下へ、一番下の底の所まで照してゐるからでございます。」
「初めはわたくしは気が変になつてゐて、委《くは》しく周囲の様子を観察することが出来なかつたのでございます。初めは只気味の悪い偉大な全体の印象が意識に登つた丈であつたのでございます。其内に少し気が落ち着いて来ましたので、わたくしは見るともなしに渦巻の底の方を覗いて見ました。丁度船が漏斗の壁に引つ掛かつてゐる工合が、底の方を覗いて見るに、なんの障礙《しやうがい》もないやうな向になつてゐたのでございます。船は竜骨の向に平らに走つてゐます。と申しますのは、船のデツクと水面とは并行してゐるのでございます。併し水面は下へ向いて四十五度以上の斜な角度を作つてゐます。そこで船は殆ど鉛直な位置に保たれて走つてゐるのでございます。その癖そんな工合に走つてゐる船の中で、わたくしが手と足とで釣合を取つてゐますのは、平面の上にゐるのと大した相違はないのでございます。多分廻転してゐる速度が非常に大きいからでございませう。」
「月は漏斗の底の様子を自分の光で好く照らして見ようとでも思ふらしく、さし込んでゐますが、どうもわたくしにはその底の所がはつきり見えませんのでございます。なぜかと申しますると、漏斗の底の所には霧が立つてゐて、それが何もかも包んでゐるのでございます。その霧の上に実に美しい虹が見えてをります。回教徒《ふい/\けうと》の信ずる所に寄りますると、この世からあの世へ行く唯一の道は、狭い、揺らめく橋だといふことでございますが、丁度その橋のやうに美しい虹が霧の上に横はつてゐるのでございます。この霧このしぶきは疑もなく、恐ろしい水の壁面が漏斗の底で衝突するので出来るのでございませう。併しその霧の中から、天に向かつて立ち昇る恐ろしい叫声は、どうして出来るのか、わたくしにも分かりませんのでございました。」
「最初に波頭の帯の所から、一息に沈んで行つたときは斜な壁の大分の幅を下りたのでございますが、それからはその最初の割には船が底の方へ下だつて行かないのでございます。船は竪に下だつて行くよりは寧ろ横に輪をかいてゐます。それも平等な運動ではなくて、目まぐろしい衝突をしながら横に走るのでございます。或るときは百尺ばかりも進みます。又或るときは渦巻の全体を一週します。そんな風に、ゆる/\とではございますが、次第々々に底の方へ近寄つて行くことだけは、はつきり知れてゐるのでございます。」
「わたくしはこの流れてゐる黒檀の壁の広い沙漠の上で、周囲を見廻しましたとき、この渦巻に吸ひ寄せられて動いてゐるものが、わたくし共の船ばかりでないのに気が付きました。船より上《かみ》の方にも下《しも》の方にも壊れた船の板片やら、山から切り出した林木やら、生木の幹やら、その外色々な小さい物、家財、壊れた箱、桶、板なんぞが走つてゐます。そのときのわたくしが最初に恐ろしがつてゐたのと違つて、不思議な好奇心に駆られてゐたといふことは、さつきもお話し申した通りでございます。どうもその好奇心が漏斗の底へ吸ひ込まれる刹那が近づけば近づくほど、増長して来るやうでございました。そこで船と一しよに走つてゐる色々な品物を細かに注意して観察し始めました。そしてその品物が底のしぶきの中に落ち込むに、早いのもあり、又遅いのもあるといふところに気を着けて、その後れ先立つ有様を面白く思つて見てゐました。これも多分気が狂つてゐたからでございませう。ふいと気が付いて見れば、わたくしは心の中でこんな事を思つてゐたのでございますね。『きつとあの樅の木が、この次ぎに、あの恐ろしい底に巻き込まれて見えなくなつてしまふのだな』なんぞと思つてゐたのでございますね。それが間違がつて、樅の木より先に、和蘭《オランダ》の商船の壊れたのが沈んでしまつたり何かするのでございます。」
「そんな風な工合に、色々予測をして見て、それが狂ふので、わたくしはとう/\或る事実を発見しました。つまり予測の誤りを修正して行つて、その事実に到達したのでございますね。その事実が分かると、わたくしの手足がぶる/″\と顫えて、心の臓がもう一遍劇しく波立つたのでございます。」
「この感動は今までより恐ろしい事を発見したからではございません。さうではなくつて、意外にも又一縷の希望が萌して来たからでございます。その希望は、わたくしの古くから持つてゐた記憶と、今目の前に見てゐる事とを思ひ合せた結果で、出て来たのでございます。その記憶といふのは、ロフオツデンの岸には、一旦モスコエストロオムの渦巻に巻き込まれて、又浮いて来た色々な品物が流れ寄ることがあつたのでございます。大抵その品物が珍らしく揉み潰され、磨り荒されてゐるのでございます。丁度刷毛のやうにけばだつてゐるのが多かつたのでございます。普通はさうであるのに、品物によつては、まるでいたんでゐないのもあつたのを思ひ出しました。そこでわたくしはかう考へました。これは揉み潰されるやうな分が、本当に渦巻の底へ巻き込まれたので、満足でゐるものは遅く渦巻に巻き込まれたか、又は外に理由があつて、まだ途ちゆうを走つてゐて、底まで行かないうちに、満潮にしろ干潮にしろ、海の様子が変つて来て、渦巻が止んでしまつて、巻き込まれずに済んだのではあるまいかと思つたのでございます。どちらにしても、早く本当の渦巻の底へ巻き込まれずに、そのまゝ浮いて来る品物もあるらしいといふことに気が付いたのでございます。」
「その外、わたくしは三つの重大な観察を致しました。第一は、なんでも物体が大きければ大きいだけ早く沈むといふことなのでございます。第二は二個の物体が同一の容積を持つてをりますと、球の形をしてゐるものが、他の形をしてゐるものよりも早く沈むといふことなんでございます。第三は同一の容積を持つてゐる二個の物体のうちで、その一個が円筒状をなしてゐますと、それが外の形をしてゐるものよりも沈みやうが遅いといふことなのでございます。わたくしは命が助かつた後に、わたくしの郡の学校の先生で、老人のお方がありましたのに、この事を話して見ました。わたくしが只今『球』だの『円筒』だのと申しますのは、そのとき先生に聞いた詞なのでございます。その先生が、わたくしの観察の結果を聞いて、なる程それは水に浮かんでゐる物体の渦巻に巻き込まれる難易の法則に適《かな》つてゐるといふことを説明してくれましたが、また就中《なかんづく》円筒が外の形よりも巻き込まれにくいものだといふことを説明してくれましたが、その理由はもう忘れてしまひました。」
「そこでわたくしがさういふ観察をしまして、その観察の正しいことを自覚して、それを利用しようと致しますまでには、今一つの経験の助けを得たのでございます。それは漏斗の中を廻つて行くとき、船が桶や檣や帆掛棹《ほかけざを》の傍を通り抜けたことがございました。そんな品物が、あとから見れば、初めわたくしの船がその傍を通つた時と、余り変らない位置を保つてゐるといふことに気が付いたのでございます。」
「そこで現在の場合に処するにはどうしたが好いかといふことを考へるのは、頗る容易でございました。わたくしは今まで噛り付いてゐた水樽の繩を解いて、樽を船から放して、わたくしの体をその繩で水樽に縛り付けて、自分が樽と一しよに海へ飛び込んでしまはうと決心したのでございます。そこでその心持を兄きに知らせてやらうと思ひまして、近所に浮いてゐる桶なんぞに指ざしをし
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