て精一ぱい兄きの注意を惹き起さうと致しました。もう大抵分かつた筈だと思ひますのに、兄きはどうしたのだか首を振つて、わたくしに同意しない様子で、やはり一しよう懸命に檣の根の鐶に噛り付いてゐます。力づくで兄きにその鐶を放させようといふことは所詮不可能でございます。その上最早少しも猶予すべき場合ではないと思ひました。そこでわたくしは無論霊の上の苦戦を致した上で、兄きは兄きの運命に任せることゝ致しまして体を繩で樽に縛り付けまして、急いで海に飛び込みました。」
「その結果は全く予期した通りでございました。御覧のとほりわたくしはこんな風にあなたに自分で自分のことをお話し申すのでございます。あなたはわたくしがそのとき危難を免かれたといふことをお疑ひはなさらないのでございませう。そしてその免かれた方法も、もうこれで委《くは》しく説明致したのでございますから、わたくしはこのお話を早く切り上げようと存じます。」
「わたくしが船から飛び込んでから、一時間ばかりも立つた時でございませう。さつきまでわたくしの乗つてゐた船は、遙か下の方で、忽然三度か四度か荒々しい廻転を致しまして、真逆様に混沌たるしぶきの中へ沈んで行つてしまひました。さてわたくしの体を縛り付けてゐる樽は、まだ海に飛び込んだときの壁面の高さと、漏斗の底との、丁度真中ほどにをりますとき、忽然渦巻の様子に大変動を来たしたのでございます。恐ろしい大漏斗の壁面が一分時間毎にその険しさを減じて来ます。渦巻の水の速度が次第々々に緩くなつて参ります。底の方に見えてゐたしぶきや虹が消えてしまひます。渦巻の底がゆる/\高まつて参ります。空は晴れて参ります。風は凪いで参ります。満月は輝きながら西に沈んで参ります。わたくしはロフオツデンの岸の見える所で、モスコエストロオムの渦巻の消え去つた跡の処より大分上手の方で、大洋の水面に浮き上がつてまゐりました。もうこの海峡の潮の鎮まるときになつたのでございます。併し海面は、暴風《あらし》の名残で、まだ小家位の浪が立つてゐるのでございます。わたくしは海峡の中の溝のやうな潮流に巻き込まれて、数分間の後に、岸辺に打ち寄せられました。漁師仲間がいつも船を寄せる所なのでございます。」
「わたくしは一つの船に助け上げられました。そのときはがつかり致して、もうなくなつた危険の記念に対して、限りのない恐怖を抱いてゐました。わたくしを船に救ひ上げた人達は、昔からの知り合で、毎日顔を見合つてゐる中であつたのに、その人達はわたくしの誰だといふことを認めることが出来ませんでした。丁度あの世から帰つて来た旅人に出逢つたやうな風でございました。その筈でございます。一日前まで墨のやうに黒かつたわたくしの髪が只今御覧なさるやうに真白になつてゐたのでございます。顔の表情もそのときまるで変つたのださうでございます。わたくしはその人達にこの経験談を致して聞かせました。併し誰も信じてくれるものはございませんでした。その経験談を只今あなたにも致したのでございます。多分あなたはロフオツデンの疑深い漁師とは違つて、幾分かわたくしの詞を信じて下さるだらうと存じます。」
底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「文藝倶楽部 一六ノ一一」
1910(明治43)年8月1日
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2009年1月14日作成
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