返つて見ますと、背後の方の空が、一面に赤銅のやうな色の雲で包まれてゐるのに気が付きました。その雲が非常な速度で蔓《はび》こつて来るのでございます。」
「それと同時に、さつき変だと思つた、向うから吹く風が、ぱつたり無くなつてしまひました。まるでちりつぱ一つ動かないやうな凪ぎになつてしまひました。わたくし共はなんといふ思案も付かずに、船を漕いでをりました。この時間は短いので、思案を定めるだけの余裕はなかつたのでございます。一分とは立たない内に、ひどい暴風《あらし》になりました。二分とは立たない内に、空は一面に雲に覆はれてしまひました。その雲と波頭のしぶきとで、船の中は真暗になつて、きやうだい三人が顔を見交すことも出来ないやうになつたのでございます。」
「暴風なんぞといふものを、詞で形容しようといふことは、所詮出来ますまい。なんでも諾威《ノルエイ》に今生きてゐるだけの漁師の内の、一番の年寄を連れて来て聞いて見ても、あの時のやうな暴風に逢つたものはないだらうと存じます。わたくし共は暴風の起つて来るとき、早速帆綱を解いてしまひました。併し初めの一吹の風で、二本の檣は鋸で引き切つたやうに折れてしまひました。大きい分の檣には、一番末の弟が、用心の為めに、綱で自分の体を縛り付けてゐたのでございますが、その弟は檣と一しよに飛んで行つてしまひました。」
「わたくし共の乗つてゐた船は、凡《おほよそ》海に乗り出す船といふ船の中で、一番軽い船であつたのだらうと思ひます。併しその船にはデツクが一面に張つてありまして、只一箇所舳の所に落し戸のやうにした所があつたばかりでございます。その戸を、海峡を越すとき、例の『跳る波』に出食はすと、締めるやうに致してゐたのでございます。このデツクがあつたので、わたくし共の船は直ぐに沈むといふことだけを免かれたのでございます。なぜと申しまするのに、暫くの間は、船体がまるで水を潜つてゐましたから、デツクが張り詰めてなかつたら、沈まずにはゐられなかつたわけなのでございます。その時わたくしの兄が助かつたのは、どうして助かつたのだか、わたくしには分かりません。わたくし自身は、前柱の帆を解き放すと一しよに、ぴつたり腹這つて、足を舳の狭い走板《はしりいた》にしつかりふんばつて、手では前柱の根に打つてある鐶《くわん》を一しよう懸命に握つてゐました。かうやつたのは只本能の働きでやつたのでございますが、考へて見る余裕があつたとしても、さうするより外にしやうはなかつたのでございます。勿論余り驚いたので、考へて見た上にどうするといふやうな余裕はなかつたのでございます。」
「さつきも申しました通り、数秒時間、わたくし共はまるで波を被つてをりました。わたくしは息を屏《つ》めて鐶に噛り付いてゐました。そこで、も少しで窒息しさうになりましたので、わたくしは手を放さずに膝を衝いて起き上がつて見ました。それでやつと頭だけが水の外に出ました。丁度そのとき船がごつくりと海面に押し出されるやうに浮きました。譬へて見れば、水に漬けられた狗が頭を水から出すやうな工合でございました。わたくしは気の遠くなつたのを出来るだけ取り直して、どうしたが好いといふ思案を極めようと思ひました。そのときわたくしの臂を握つたものがあります。それは兄きでございました。わたくしは、もうとつくの昔兄きは船から跳ね出されたものだと思つてゐましたから、この刹那にひどく嬉しく思ひました。併しその嬉しいと思つたのは、ほんの一刹那だけで、忽然わたくしの喜びは非常な恐怖に変じてしまひました。それは兄きがわたくしの耳に口を寄せて、只|一言《ひとこと》『モスコエストロオム』と申したからでございます。」
「どんな人間だつて、わたくしのそのとき感じたやうな心持を、詞で言ひ現はすことは出来ますまい。丁度ひどい熱の発作のやうに、わたくしは頭のてつぺんから足の爪先まで、顫え上がりました。兄きがその一|言《ごん》で、何をわたくしに申したのだといふことが、わたくしには直ぐに分かつたからでございます。兄きの云つた一言は、風がわたくし共の船を押し流して、船が渦巻の方へ向いてゐるのだといふことでございます。」
「先刻もわたくしは申しましたが、モスコエの海峡を越すときには、わたくし共はいつでも渦巻よりずつと上の方を通るやうに致してをりました。仮令《たとひ》どんな海の穏かなときでも、渦巻に近寄らないやうにといふ用心だけは、少しも怠つたことはございません。それに今は恐ろしい暴風に吹かれて、舟が渦巻の方へ押し流されてゐるのでございます。その刹那にわたくしは思ひました。兎に角時間が一番渦巻の静な時にあたつてゐるのだから、多少希望がないでもないと思ひました。併しさう思つてしまふと、その考の馬鹿気てゐることを悟らずにはゐられませんでした。もう希望なんぞといふ夢を見てはゐられない筈なのでございます。仮令乗つてゐるこの船が、大砲の九十門も備へてゐる軍艦であつたにしろ、これが砕けずに済む筈はないのでございます。」
「その内に暴風の最初の勢ひが少し挫けて来たやうに思はれました。それとも船が真直ぐに前に押し流されるので、風の勢ひを前ほど感じないやうになつたのかも知れません。兎に角今まで風の勢ひで平らに押し付けられて、泡立つてゐた海は、山のやうに高くふくらんで来ました。空の摸様も変にかはつて来ました。見えてゐる限りの空の周囲《まはり》が、どの方角もぐるりと墨のやうに真黒になつてゐまして、丁度わたくし共の頭の上の所に、まんまるに穴があいてゐます。その穴の所は、これまでつひぞ見たことのない、明るい、光沢《つや》のある藍色になつてゐまして、その又真中の所に、満月が明るく照つてゐるのでございます。その月の光で、わたくし共の身の周囲は何もかもはつきりと見えてゐます。併しその月の見せてくれる光景が、まあ、どんなものだつたと思召します。」
「わたくしは一二度兄きにものを申さうと存じました。併しどういふわけか、物音が非常に強くなつてゐまして、一しよう懸命兄きの耳に口を寄せてどなつて見ても、一言《ひとこと》も向うへは聞えないのでございます。忽然兄きは頭を掉《ふ》つて、死人のやうな顔色になりました。そして右の手の示指《ひとさしゆび》を竪《た》てゝわたくしに見せるのです。それが『気を付けろ』といふのだらうとわたくしには思はれたのでございます。」
「初めにはどう思つて兄きがさうしたか分からなかつたのでございます。そのうちなんとも云はれない、恐ろしい考が浮んで参りました。わたくしは隠しから時計を出して見ました。止まつてゐます。月明りに透かしてその針の止まつてゐる所を見て、わたくしは涙をばら/\と飜《こぼ》して、その時計を海に投げ込んでしまひました。時計は七時に止まつてゐました。わたくし共は海の静な時を無駄に過してしまつて、渦巻は今真盛りになつてゐる時なのでございます。」
「一体船といふものは、細工が好く出来てゐて、道具が揃つてゐて、積荷が重過ぎるやうなことがなくて順風で走るときは、それに乗つてゐると波が船の下を後へ潜り抜けて行くやうに、思はれるものでございます。海に馴れない人が見ると、よくそれを不思議がるものでございます。船頭はさういふ風に船の行くとき、それを波に『乗る』と申します。これまではわたくし共はその波に乗つて参りました。所が、忽ち背後《うしろ》から恐ろしい大きな波が来ました。船を持ち上げました。次第に高く/\持ち上げて、天までも持つて行かれるかと思ふやうでございました。波といふものが、こんなに高く立つことがあるといふことは、わたくし共も、そのときまで知らなかつたのでございます。さて登り詰めたかと思ふと、急に船が滑るやうな沈んで行くやうな運動を為始《しはじ》めました。丁度夢で高い山から落ちる時のやうに、わたくしは眩暈《めまひ》が致して胸が悪くなつて来ました。併し波の絶頂から下り掛かつた時に、わたくしはその辺の様子を一目に見渡すことが出来ました。一目に見たばかりではございますが、見るだけのことは十分見ました。一秒時間にわたくしは自分達の此時の境遇をすつかり見て取つたのでございます。モスコエストロオムの渦巻は大約四分の一哩ほど前に見えてゐました。その渦巻がいつも見るのとはまるで違つてゐて、言つて見れば、そのときの渦巻と今日の渦巻との比例は、今日の渦巻と水車の輪に水を引く為めに掘つた水溜との比例位なものでございます。若し船の居所を知らずに、これからどうなるかといふことを思はずに、あれを見ましたなら、その目に見えてゐるものが何物だか、分からなかつたかも知れません。所が、それが分かつてゐたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目を瞑《つぶ》りました。目を瞑つたといふよりは、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》がひとりでに痙攣を起して閉ぢたといつた方が好いのでございます。」
「それから二分間も立つたかと思ひますと、波が軽くなつて船の周囲がしぶきで包まれてしまひました。そのとき船が急に取柁《とりかぢ》の方へ半分ほど廻つて、電《いなづま》のやうに早く、今までと変つた方角へ走り出しました。そのとき今までのどう/″\と鳴つてゐた水の音を打ち消すほど強く、しゆつしゆつといふやうな音が致しました。譬て見れば、蒸気の螺旋口《ねぢぐち》を千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すやうな音なのでございます。わたくし共は渦巻を取り巻いてゐる波頭の帯の所に乗り掛かつたのでございます。そのときの考では次の一刹那には、今恐ろしい速度で走つてゐますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸ひ込まれてしまふのだらうと思つたのでございます。そのときの船の走り加減といふものは妙でございました。まるで気泡の浮いてゐるのかなにかのやうに、船の底と水とが触れてゐないかと思ふやうに、飛ぶやうに走つてゐるのでございます。船の面柁《おもかぢ》の方の背後《うしろ》に、今まで船の浮んでゐた、別な海の世界が、高くなつて欹立《そばだ》つてゐるのでございます。その別な海の世界は、取柁の所と水平線との中間に立つてゐる、恐ろしい、きざ/\のある壁のやうに見えるのでございます。」
「こんな事を申すと、可笑《をか》しいやうでございますが、わたくし共はもう渦巻の※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》に這入り掛かつてゐますので、今まで渦巻の方へ向いて、船の走つてゐたときよりは、腹が据わつて、落付いて来たのでございます。もう助からないと諦めてしまひましたので、今までどうならうかどうならうかと思つた恐怖の念がなくなつたのでございますね。どうも絶望の極度に達しますと、神経といふものにも、もうこれより強く刺戟せられることは出来ないといふ程度があるものと見えまして、却て落着も出て参るのでございますね。」
「かう申すと、法螺を吹くやうでございますが、全く本当の事でございます。わたくしはこんなことを考へました。かうして死ぬるのは実に強気《がうぎ》な死にやうだと存じました。神のお定め下すつた、こんな運命に出逢つてゐて、自分一人の身の上の小利害なんぞを考へるのは、余り馬漉らしいことだと存じました。わたくしはなんでもさう思つたとき恥かしくなつて、顔を赧くしたかと存じます。」
「暫く致してわたくしは、一体この渦巻がどんなものだか知りたいと思ふ好奇心を起したのでございます。わたくしは自分の命を犠牲にして、この渦巻の深さを捜つて見たいと思ふ希望を、はつきり感じたのでございます。そこで、自分は今恐ろしい秘密を見る事が出来るのだが、それを帰つて行つて、岸の上に住んでゐる友達に話して聞かせることの出来ないのが、如何にも遺憾だと思ひました。今死ぬのだらうといふ人間の考としては、こんな考は無論不似合で可笑しいには違ひございません。跡で思つて見れば、渦巻の入口で、何遍も船がくる/\廻つたので、少し気が変になつてゐたかも知れません。」
「それにわたくしが気を落ち着けた原因が、今一つあるのでございます。これ迄うるさかつた風といふも
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