掛かつてゐますが、その靄の向うを御覧になると海が広く見えてゐるのでございます。」
僕は恐々《おそる/\》頭を上げて見た。広々とした大洋が向うの下の方に見える。その水はインクのやうに黒い色をしてゐる。僕は直ぐにヌビアの地学者の書いたものにあるマレ・テネブラルムを思ひ出した。「闇の海」を思ひ出した。人間が想像をどんなに逞くしてもこれより恐ろしい、これより慰藉のないパノラマを想像することは、出来ない。右を見ても左を見ても、目の力の届く限り恐ろしい陰気な、上から下へ被《かぶ》さるやうな岩の列が立つてゐる。丁度人間世界の境の石でゞもあるやうに、境の塁壁でゞもあるやうに、その岩の列が立つてゐる。その岩組の陰気な性質が、激しく打ち寄せる波で、一層気味悪く見える。その波は昔から永遠に吠えて、どなつて、白い、怪物めいた波頭を立たせてゐるのである。
丁度僕とその男との坐つてゐる岩端に向き合つて、五|哩《マイル》か六哩位の沖に、小さい黒ずんだ島がある。打ち寄せる波頭の泡が八方からそれを取巻いてゐる。その波頭の白いので、黒ずんだ島が一際《ひときは》明かに見えてゐる。それから二哩ばかり陸《をか》の方へ寄つて
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