ふのだらうと思つたのでございます。そのときの船の走り加減といふものは妙でございました。まるで気泡の浮いてゐるのかなにかのやうに、船の底と水とが触れてゐないかと思ふやうに、飛ぶやうに走つてゐるのでございます。船の面柁《おもかぢ》の方の背後《うしろ》に、今まで船の浮んでゐた、別な海の世界が、高くなつて欹立《そばだ》つてゐるのでございます。その別な海の世界は、取柁の所と水平線との中間に立つてゐる、恐ろしい、きざ/\のある壁のやうに見えるのでございます。」
「こんな事を申すと、可笑《をか》しいやうでございますが、わたくし共はもう渦巻の※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》に這入り掛かつてゐますので、今まで渦巻の方へ向いて、船の走つてゐたときよりは、腹が据わつて、落付いて来たのでございます。もう助からないと諦めてしまひましたので、今までどうならうかどうならうかと思つた恐怖の念がなくなつたのでございますね。どうも絶望の極度に達しますと、神経といふものにも、もうこれより強く刺戟せられることは出来ないといふ程度があるものと見えまして、却て落着も出て参るのでございますね。」
「かう申すと、
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