若し船の居所を知らずに、これからどうなるかといふことを思はずに、あれを見ましたなら、その目に見えてゐるものが何物だか、分からなかつたかも知れません。所が、それが分かつてゐたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目を瞑《つぶ》りました。目を瞑つたといふよりは、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》がひとりでに痙攣を起して閉ぢたといつた方が好いのでございます。」
「それから二分間も立つたかと思ひますと、波が軽くなつて船の周囲がしぶきで包まれてしまひました。そのとき船が急に取柁《とりかぢ》の方へ半分ほど廻つて、電《いなづま》のやうに早く、今までと変つた方角へ走り出しました。そのとき今までのどう/″\と鳴つてゐた水の音を打ち消すほど強く、しゆつしゆつといふやうな音が致しました。譬て見れば、蒸気の螺旋口《ねぢぐち》を千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すやうな音なのでございます。わたくし共は渦巻を取り巻いてゐる波頭の帯の所に乗り掛かつたのでございます。そのときの考では次の一刹那には、今恐ろしい速度で走つてゐますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸ひ込まれてしま
前へ
次へ
全44ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング