やつたのでございますが、考へて見る余裕があつたとしても、さうするより外にしやうはなかつたのでございます。勿論余り驚いたので、考へて見た上にどうするといふやうな余裕はなかつたのでございます。」
「さつきも申しました通り、数秒時間、わたくし共はまるで波を被つてをりました。わたくしは息を屏《つ》めて鐶に噛り付いてゐました。そこで、も少しで窒息しさうになりましたので、わたくしは手を放さずに膝を衝いて起き上がつて見ました。それでやつと頭だけが水の外に出ました。丁度そのとき船がごつくりと海面に押し出されるやうに浮きました。譬へて見れば、水に漬けられた狗が頭を水から出すやうな工合でございました。わたくしは気の遠くなつたのを出来るだけ取り直して、どうしたが好いといふ思案を極めようと思ひました。そのときわたくしの臂を握つたものがあります。それは兄きでございました。わたくしは、もうとつくの昔兄きは船から跳ね出されたものだと思つてゐましたから、この刹那にひどく嬉しく思ひました。併しその嬉しいと思つたのは、ほんの一刹那だけで、忽然わたくしの喜びは非常な恐怖に変じてしまひました。それは兄きがわたくしの耳に口を寄せて、只|一言《ひとこと》『モスコエストロオム』と申したからでございます。」
「どんな人間だつて、わたくしのそのとき感じたやうな心持を、詞で言ひ現はすことは出来ますまい。丁度ひどい熱の発作のやうに、わたくしは頭のてつぺんから足の爪先まで、顫え上がりました。兄きがその一|言《ごん》で、何をわたくしに申したのだといふことが、わたくしには直ぐに分かつたからでございます。兄きの云つた一言は、風がわたくし共の船を押し流して、船が渦巻の方へ向いてゐるのだといふことでございます。」
「先刻もわたくしは申しましたが、モスコエの海峡を越すときには、わたくし共はいつでも渦巻よりずつと上の方を通るやうに致してをりました。仮令《たとひ》どんな海の穏かなときでも、渦巻に近寄らないやうにといふ用心だけは、少しも怠つたことはございません。それに今は恐ろしい暴風に吹かれて、舟が渦巻の方へ押し流されてゐるのでございます。その刹那にわたくしは思ひました。兎に角時間が一番渦巻の静な時にあたつてゐるのだから、多少希望がないでもないと思ひました。併しさう思つてしまふと、その考の馬鹿気てゐることを悟らずにはゐられませんでした。も
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