こかげ》に隠れたる苫屋の燈《ともしび》見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし簷端《のきば》の小窓|開《あ》きて、白髪の老女《おうな》、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の贄《にえ》求めつるよ。主人《あるじ》はベルヒの城へきのふより駆《か》りとられて、まだ帰らず。手当《てあて》して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも畢《おわ》らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、桟橋《さんばし》の畔《ほとり》に馳出《はせい》で、泣く泣く巨勢を扶《たす》けて、少女を抱きいれぬ。
 入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点《とも》したりと見ゆる小「ランプ」竈《かまど》の上に微《かすか》なり。四方《よも》の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇《ヤソ》一代記の彩色画は、煤《すす》に包まれておぼろげなり。藁火焚《わらびた》きなどして介抱しぬれど、少女は蘇《よみがえ》らず。巨勢は老女と屍《かばね》の傍《かたわら》に夜をとほして、消えて迹《あと》なきう
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