しきほどの事なり。独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》の戦《いくさ》ありし時、加特力《カトリック》派の国会に打勝ちて、普魯西《プロシヤ》方につきし、王が中年のいさをは、次第に暴政の噂《うわさ》に掩《おお》はれて、公けにこそ言ふものなけれ、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、故なくして死刑に行はれむとしたるを、その筋にて秘めたるは、誰知らぬものなし。王の昼寝し玉ふときは、近衆《きんじゅう》みな却《しりぞ》けられしが、囈語《うわこと》にマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にて類《たぐい》なかりきと聞きつ。」
「父は間もなく病みて死にき。交《まじわり》広く、もの惜《おし》みせず、世事には極めて疎《うと》かりければ、家に遺財つゆばかりもなし。それよりダハハウエル街の北のはてに、裏屋の二階明きたりしを借りて住みしが、そこに遷りてより、母も病みぬ。かかる時にうつろふものは、人の心の花なり。数知らぬ苦しき事は、わが穉《おさな》き心に、早く世の人を憎ましめき
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