、然《しか》るべき家に奉公せばやとおもひしが、身元|善《よ》からねば、ところの貴族などには使はれず。この学校の或る教師に、端《はし》なくも見出されて、雛形《モデル》勤めしが縁《えにし》になりて、遂に鑑札受くることとなりしが、われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の間に立ちまじりて、唯《ただ》面白くのみ日を暮せり。されどグスタアフ・フライタハはさすがそら言《ごと》いひしにあらず。美術家ほど世に行儀|悪《あ》しきものなければ、独立《ひとりた》ちて交《まじわ》るには、しばしも油断すべからず。寄らず、障《さわ》らぬやうにせばやとおもひて、計《はか》らず見玉《みたま》ふ如き不思議の癖者《くせもの》になりぬ。をりをりは我身、みづからも狂人にはあらずやと疑ふばかりなり。これにはレオニにて読みしふみも、少《すこ》し祟《たたり》をなすかとおもへど、もし然《さ》らば世に博士と呼ばるる人は、そもそもいかなる狂人ならむ。われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくて※[#「※」は「りっしんべん+匚+夾」、第3水準1−84−56、55−11]《かな》はぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが言《げん》をも待《ま》たず。見玉へ、我学問の博《ひろ》きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。悲しきことのみ多ければ、昼は蝉《せみ》と共に泣き、夜は蛙《かわず》と共に泣けど、あはれといふ人もなし。おん身のみは情《つれ》なくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るを咎《とが》め玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」


     下

 定《さだめ》なき空に雨|歇《や》みて、学校の庭の木立《こだち》のゆるげるのみ曇りし窓の硝子《ガラス》をとほして見ゆ。少女《おとめ》が話聞く間、巨勢《こせ》が胸には、さまざまの感情戦ひたり。或ときはむかし別れし妹に逢《あ》ひたる兄の心となり、或ときは廃園に僵《たお》れ伏《ふ》したるヱヌスの像に、独《ひとり》悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女《えんにょ》に心動され、われは堕《お》ちじと戒むる沙門《しゃもん》の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉|顫《ふる》ひて、われにもあらで、少女が前に跪《ひざまず》かむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ往《ゆ》き玉はずや。」と側《そば》なる帽《ぼう》取りて戴《いただ》きつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずと覚《おぼ》し。巨勢は唯《ただ》母に引かるる穉子《おさなご》の如く従ひゆきぬ。
 門前にて馬車|雇《やと》ひて走らするに、ほどなく停車場に来ぬ。けふは日曜なれど、天気|悪《あ》しければにや、近郷《きんごう》よりかへる人も多からで、ここはいと静《しずか》なり。新聞の号外売る婦人あり。買ひて見れば、国王ベルヒの城に遷《うつ》りて、容体《ようだい》穏なれば、侍医グッデンも護衛を弛《ゆる》めさせきとなり。※[#「※」は「汽の中に小さい米」、第4水準2−79−6、58−3]車《きしゃ》中には湖水の畔《ほとり》にあつさ避くる人の、物買ひに府に出でし帰るさなるが多し。王の噂《うわさ》いと喧《かまびす》し。「まだホオヘンシュワンガウの城にゐたまひし時には似ず、心|鎮《しず》まりたるやうなり。ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなりし漁師《りょうし》らを見て、やさしく頷《うなず》きなどしたまひぬ。」と訛《だ》みたることばにて語るは、かひもの籠《かご》手にさげたる老女《おうな》なりき。
 車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは夕《ゆうべ》の五時なり。かちより往《ゆ》きてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の気色《けしき》にも、胸開きて息せらる。車のあちこちと廻来《まわりこ》し、丘陵の忽《たちまち》開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。
 案内《あない》知りたる少女に引かれて、巨勢は右手《めて》なる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」の庭《ホオフ》といふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に石卓《いしづくえ》、椅子《いす》など並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕する僕《しもべ》の黒き上衣《うわぎ》に、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起して拭《ぬぐ》ひゐたり。ふと
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