見れば片側の軒《のき》にそひて、つた蔓《かずら》からませたる架《たな》ありて、その下《もと》なる円卓《まるづくえ》を囲みたるひと群《むれ》の客あり。こはこの「ホテル」に宿りたる人々なるべし。男女打ちまじりたる中に、先の夜「ミネルワ」にて見し人ありしかば、巨勢は往きてものいはむとせしに、少女おしとどめて。「かしこなるは、君の近づきたまふべき群にあらず。われは年若き人と二人にて来たれど、愧《は》づべきはかなたにありて、こなたにあらず。彼はわれを知りたれば、見玉へ、久しく座にえ忍びあへで隠るべし。」とばかりありて、彼《かの》美術諸生は果して起《た》ちて「ホテル」に入りぬ。少女は僕を呼びちかづけて、座敷船はまだ出づべしやと問ふに、僕は飛行く雲を指さして、この覚束《おぼつか》なきそらあひなれば、最早《もはや》出《い》でざるべしといふ。さらば車にてレオニに行かばやとて言付けぬ。
馬車来ぬれば、二人は乗りぬ。停車場の傍《かたえ》より、東の岸辺を奔《はし》らす。この時アルペンおろしさと吹来て、湖水のかたに霧立ちこめ、今出でし辺《ほとり》をふりかへり見るに、次第々々に鼠色《ねずみいろ》になりて、家の棟《むね》、木のいただきのみ一きは黒く見えたり。御者ふりかへりて、「雨なり。母衣《ほろ》掩《おお》ふべきか。」と問ふ。「否《いな》」と応《こた》へし少女は巨勢に向ひて。「ここちよのこの遊《あそび》や。むかし我命|喪《うしな》はむとせしもこの湖の中なり。我命拾ひしもまたこの湖の中なり。さればいかでとおもふおん身に、真心《まごころ》打明けてきこえむもここにてこそと思へば、かくは誘《さそ》ひまつりぬ。『カッフェエ・ロリアン』にて恥かしき目にあひけるとき、救ひ玉はりし君をまた見むとおもふ心を命にて、幾歳《いくとせ》をか経にけむ。先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の振舞《ふるまい》せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指《いちだんし》の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ被《かぶ》りし帽を脱棄《ぬぎす》てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈《だいりせきみゃく》に熱血|跳《おど》る如くにて、風に吹かるる金髪は、首《こうべ》打振りて長く嘶《いば》ゆる駿馬《しゅんめ》の鬣《たてがみ》に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空《むな》しき名のみ、あだなる声のみ。」
この時、二点三点、粒太《つぶふと》き雨は車上の二人が衣《きぬ》を打ちしが、瞬《またた》くひまに繁くなりて、湖上よりの横しぶき、あららかにおとづれ来て、紅《べに》を潮《さ》したる少女が片頬《かたほお》に打ちつくるを、さし覗《のぞ》く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ。少女は伸びあがりて、「御者、酒手《さかて》は取らすべし。疾《と》く駆《か》れ。一策《ひとむち》加へよ、今一策。」と叫びて、右手《めて》に巨勢が頸《うなじ》を抱《いだ》き、己《おの》れは項《うなじ》をそらせて仰視《あおぎみ》たり。巨勢は絮《わた》の如き少女が肩に、我|頭《かしら》を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼《かの》凱旋門《がいせんもん》上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。
国王の棲《す》めりといふベルヒ城の下《もと》に来《こ》し頃は、雨いよいよ劇《はげ》しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞《たてじま》おり出して、濃《こ》き処には雨白く、淡《あわ》き処には風黒し。御者は車を停めて、「しばしがほどなり。余りに濡《ぬ》れて客人《まろうど》も風や引き玉はむ。また旧《ふる》びたれどもこの車、いたく濡らさば、主人《あるじ》の嗔《いかり》に逢《あ》はむ。」といひて、手早く母衣|打掩《うちおお》ひ、また一鞭《ひとむち》あてて急ぎぬ。
雨なほをやみなくふりて、神おどろおどろしく鳴りはじめぬ。路《みち》は林の間に入りて、この国の夏の日はまだ高かるべき頃なるに、木下道《このしたみち》ほの暗うなりぬ。夏の日に蒸《む》されたりし草木の、雨に湿《うるお》ひたるかをり車の中に吹入るを、渇《かつ》したる人の水飲むやうに、二人は吸ひたり。鳴神《なるかみ》のおとの絶間《たえま》には、おそろしき天気に怯《おく》れたりとも見えぬ「ナハチガル」鳥の、玲瓏《れいろう》たる声振りたててしばなけるは、淋しき路を独《ひとり》ゆく人の、ことさらに歌うたふ類《たぐい》にや。この時マリイは諸手《もろて》を巨勢が項に組合せて、身のおもりを持たせかけたりしが、木蔭を洩《も》る稲妻に照らされたる顔、見合せて笑《えみ》を含みつ。あはれ二人は我を忘れ
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