しきほどの事なり。独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》の戦《いくさ》ありし時、加特力《カトリック》派の国会に打勝ちて、普魯西《プロシヤ》方につきし、王が中年のいさをは、次第に暴政の噂《うわさ》に掩《おお》はれて、公けにこそ言ふものなけれ、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、故なくして死刑に行はれむとしたるを、その筋にて秘めたるは、誰知らぬものなし。王の昼寝し玉ふときは、近衆《きんじゅう》みな却《しりぞ》けられしが、囈語《うわこと》にマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にて類《たぐい》なかりきと聞きつ。」
 「父は間もなく病みて死にき。交《まじわり》広く、もの惜《おし》みせず、世事には極めて疎《うと》かりければ、家に遺財つゆばかりもなし。それよりダハハウエル街の北のはてに、裏屋の二階明きたりしを借りて住みしが、そこに遷りてより、母も病みぬ。かかる時にうつろふものは、人の心の花なり。数知らぬ苦しき事は、わが穉《おさな》き心に、早く世の人を憎ましめき。明《あく》る年の一月、謝肉祭の頃なりき、家財衣類なども売尽して、日々の烟《けぶり》も立てかぬるやうになりしかば、貧しき子供の群に入りてわれも菫花《すみれ》売ることを覚えつ。母のみまかる前、三日四日のほどを安く送りしは、おん身の賜《たまもの》なりき。」
 「母のなきがら片付けなどするとき、世話せしは、一階高くすまひたる裁縫師なり。あはれなる孤《みなしご》ひとり置くべきにあらずとて、迎取られしを喜びしこと、今おもひ出しても口惜《くや》しきほどなり。裁縫師には、娘二人ありて、いたく物ごのみして、みづから衒《てら》ふさまなるを見しが、迎取られてより伺《うかが》へば、夜に入りてしばしば客あり。酒など飲みて、はては笑ひ罵《ののし》り、また歌ひなどす。客は外国《とつくに》の人多く、おん国の学生なども見えしやうなりき。或る日|主人《あるじ》われにも新しき衣《きぬ》着よといひしが、そのをりその男の我を見て笑ひし顔、何となく怖《おそ》ろしく、子供心にもうれしとはおもはざりき。午《ひる》すぎし頃、四十ばかりなる知らぬ人来て、スタルンベルヒの湖水へ往《ゆ》かむといふを、主人も倶《とも》に勧《すす》めき。父の世にありしきとき、伴はれてゆきし嬉しさ、なほ忘れざりしかば、しぶしぶ諾《うべな》ひつるを、「かくてこそ善《よ》き子なれ」とみな誉《ほ》めつ。連れなる男は、途《みち》にてやさしくのみ扱ひて、かしこにては『バワリア』といふ座敷船《ザロンダムフェル》に乗り、食堂にゆきて物食はせつ。酒もすすめぬれど、そは慣れぬものなれば、辞《いな》みて飲まざりき。ゼエスハウプトに船はてしとき、その人はまた小舟を借り、これに乗りて遊ばむといふ。暮れゆくそらに心細くなりしわれは、はやかへらむといへど、聴かずして漕出《こぎい》で、岸辺に添ひてゆくほどに、人げ遠き葦間《あしま》に来《きた》りしが、男は舟をそこに停《と》めつ。わが年はまだ十三にて、初《はじめ》は何事ともわきまへざりしが、後《のち》には男の顔色もかはりておそろしく、われにでもあらで、水に躍入《おどりい》りぬ。暫しありて我にかへりしときは、湖水の畔《ほとり》なる漁師《りょうし》の家にて、貧しげなる夫婦のものに、介抱せられてゐたりき。帰るべき家なしと言張りて、一日《ひとひ》二日《ふたひ》と過《すぐ》す中《うち》に、漁師夫婦の質朴なるに馴染《なじ》みて、不幸なる我身の上を打明けしに、あはれがりて娘として養ひぬ。ハンスルといふは、この漁師の名なり。」
 「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂《かじ》取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人《イギリスびと》の住めるに雇《やと》はれて、小間使《こまづかい》になりぬ。加特力教《カトリックきょう》信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼《かの》家なりし雇女教師[#「雇女教師」の右に《やといじょきょうし》、左に《グェルナント》とルビ、55−10]の恵《めぐみ》なり。女教師は四十余の処女《しょじょ》なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年《みとせ》がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、悉《ことごと》く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を繙《ひもと》き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
 「去年《こぞ》英吉利人一族を率ゐて国に帰りし後は
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