りて組付き、かれこれたがひに声だに立てず、暫し揉合《もみあ》ひたり。
これ唯《ただ》一瞬間の事なりき。巨勢は少女が墜《お》つる時、僅《わずか》に裳《も》を握みしが、少女が蘆間隠れの杙《くい》に強く胸を打たれて、沈まむとするを、やうやうに引揚《ひきあ》げ、汀《みぎわ》の二人が争ふを跡に見て、もと来《こ》し方《かた》へ漕ぎ返しつ。巨勢は唯|奈何《いか》にもして少女が命助けむと思ふのみにて、外《ほか》に及ぶに遑《いとま》あらざりしなり。レオニの酒店の前に来しが、ここへは寄らず、これより百歩がほどなりと聞きし、漁師夫婦が苫屋《とまや》をさして漕ぎゆくに、日もはや暮れて、岸には「アイヘン」、「エルレン」などの枝繁りあひ広ごりて、水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ闇《やみ》にほの見えたり。舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、藻屑《もくず》かかりて僵《たお》れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ。をりしも漕来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢《ほたる》あり。あはれ、こは少女が魂《たま》のぬけ出でたるにはあらずや。
しばしありて、今まで木影《こかげ》に隠れたる苫屋の燈《ともしび》見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし簷端《のきば》の小窓|開《あ》きて、白髪の老女《おうな》、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の贄《にえ》求めつるよ。主人《あるじ》はベルヒの城へきのふより駆《か》りとられて、まだ帰らず。手当《てあて》して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも畢《おわ》らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、桟橋《さんばし》の畔《ほとり》に馳出《はせい》で、泣く泣く巨勢を扶《たす》けて、少女を抱きいれぬ。
入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点《とも》したりと見ゆる小「ランプ」竈《かまど》の上に微《かすか》なり。四方《よも》の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇《ヤソ》一代記の彩色画は、煤《すす》に包まれておぼろげなり。藁火焚《わらびた》きなどして介抱しぬれど、少女は蘇《よみがえ》らず。巨勢は老女と屍《かばね》の傍《かたわら》に夜をとほして、消えて迹《あと》なきう
前へ
次へ
全21ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング