路《まさごじ》の次第に低くなりて、波打際《なみうちぎわ》に長椅子|据《す》ゑたる見ゆ。蘆《あし》の一叢《ひとむら》舟に触れて、さわさわと声するをりから、岸辺に人の足音して、木の間を出づる姿あり。身の長《たけ》六尺に近く、黒き外套を着て、手にしぼめたる蝙蝠傘《こうもりがさ》を持ちたり。左手《ゆんで》に少し引きさがりて随《したが》ひたるは、鬚《ひげ》も髪も皆雪の如くなる翁《おきな》なりき。前なる人は俯《うつむ》きて歩み来《き》ぬれば、縁《ふち》広き帽に顔隠れて見えざりしが、今|木《こ》の間《ま》を出でて湖水の方に向ひ、しばし立ちとどまりて、片手に帽をぬぎ持ちて、打ち仰ぎたるを見れば、長き黒髪を、後《うしろ》ざまにかきて広き額《ぬか》を露《あら》はし、面《おもて》の色灰のごとく蒼《あお》きに、窪《くぼ》みたる目の光は人を射たり。舟にては巨勢が外套を背に着て、蹲《うずく》まりゐたるマリイ、これも岸なる人を見ゐたりしが、この時|俄《にわか》に驚きたる如く、「彼は王なり」と叫びて立ちあがりぬ。背なりし外套は落ちたり。帽はさきに脱ぎたるまま、酒店に置きて出でぬれば、乱れたるこがね色の髪は、白き夏衣《なつごろも》の肩にたをたをとかかりたり。岸に立ちたるは、実に侍医グッデンを引つれて、散歩に出でたる国王なりき。あやしき幻の形を見る如く、王は恍惚《こうこつ》として少女の姿を見てありしが、忽《たちまち》一声「マリイ」と叫び、持ちたる傘投棄てて、岸の浅瀬をわたり来ぬ。少女は「あ」と叫びつつ、そのまま気を喪《うしな》ひて、巨勢が扶《たす》くる手のまだ及ばぬ間《ま》に僵《たお》れしが、傾く舟の一揺りゆらるると共に、うつ伏《ぶせ》になりて水に墜《お》ちぬ。湖水はこの処にて、次第々々に深くなりて、勾配《こうばい》ゆるやかなりければ、舟の停《とど》まりしあたりも、水は五尺に足らざるべし。されど岸辺の砂は、やうやう粘土まじりの泥となりたるに、王の足は深く陥《おち》いりて、あがき自由ならず。その隙《ひま》に随《したが》ひたりし翁は、これも傘投捨てて追ひすがり、老いても力や衰へざりけむ、水を蹴《けり》て二足《ふたあし》三足《みあし》、王の領首《えりくび》むづと握りて引戻さむとす。こなたは引かれじとするほどに、外套は上衣と共に翁が手に残りぬ。翁はこれをかいやり棄てて、なほも王を引寄せむとするに、王はふりかへ
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