、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ。
 林を出でて、阪路《さかみち》を下るほどに、風|村雲《むらくも》を払ひさりて、雨もまた歇《や》みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重《ひとえ》、二重と剥《は》ぐ如く、束《つか》の間《ま》に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。唯ここかしこなる木下蔭を過《す》ぐるごとに、梢《こずえ》に残る露の風に払はれて落つるを見るのみ。
 レオニにて車を下りぬ。左に高く聳《そばだ》ちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる石碑《せきひ》の建てる処なり。右に伶人《れいじん》レオニが開きぬといふ、水に臨《のぞ》める酒店《さかみせ》あり。巨勢が腕《かいな》にもろ手からみて、縋《すが》るやうにして歩みし少女は、この店の前に来て岡の方をふりかへりて、「わが雇はれし英吉利人《イギリスびと》の住みしは、この半腹《はんぷく》の家なりき。老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、最早百歩がほどなり。われはおん身をかしこへ、伴はむとおもひて来《こ》しが、胸騒ぎて堪《た》へがたければ、この店にて憩《いこ》はばや。」巨勢は現《げ》にもとて、店に入りて夕餉《ゆうげ》誂《あつら》ふるに、「七時ならでは整はず、まだ三十分待ち給はではかなはじ、」といふ。ここは夏の間のみ客ある処にて、給仕する人もその年々に雇ふなれば、マリイを識《し》れるもなかりき。
 少女はつと立ちて、桟橋《さんばし》に繋《つな》ぎし舟を指さし、「舟|漕《こ》ぐことを知り玉ふか。」巨勢、「ドレスデンにありし時、公園のカロラ池にて舟漕ぎしことあり、善くすといふにあらねど、君|独《ひと》りわたさむほどの事、いかで做得《なしえ》ざらむ。」少女、「庭なる椅子《いす》は濡《ぬ》れたり。さればとて屋根の下は、あまりに暑し。しばし我を載せて漕ぎ玉へ。」
 巨勢はぬぎたる夏外套《なつがいとう》を少女に被《き》せて小舟《おぶね》に乗らせ、われは櫂《かい》取りて漕出《こぎい》でぬ。雨は歇みたれど、天なほ曇りたるに、暮色は早く岸のあなたに来ぬ。さきの風に揺られたるなごりにや、※[#「※」は「木へん+世」、第3水準1−85−56、63−5]敲《かじたた》くほどの波はなほありけり。岸に沿ひてベルヒの方《かた》へ漕ぎ戻すほどに、レオニの村落果つるあたりに来ぬ。岸辺の木立《こだち》絶えたる処に、真砂
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