あそび
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)醒《さ》ました

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)丁度|物干竿《ものほしざお》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「巾+廚」、第4水準2−12−1、115−3]
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 木村は官吏である。
 ある日いつもの通りに、午前六時に目を醒《さ》ました。夏の初めである。もう外は明るくなっているが、女中が遠慮してこの間《ま》だけは雨戸を開けずに置く。蚊※[#「※」は「巾+廚」、第4水準2−12−1、115−3]《かや》の外に小さく燃えているランプの光で、独寝《ひとりね》の閨《ねや》が寂しく見えている。
 器械的に手が枕《まくら》の側《そば》を探る。それは時計を捜すのである。逓信省で車掌に買って渡す時計だとかで、頗《すこぶ》る大きいニッケル時計なのである。針はいつもの通り、きちんと六時を指している。
「おい。戸を開けんか。」
 女中が手を拭《ふ》き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。
 女中は湯帷子《ゆかた》に襷《たすき》を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。
「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う。木村の借家から電車の停留場まで七八町ある。それを歩いて行くと、涼しいと思って門口を出ても、行き着くまでに汗になる。その事を思ったのである。
 縁側に出て顔を洗いながら、今朝急いで課長に出すはずの書類のあることを思い出す。しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行けば好いと思う。
 そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知らないものが見たら、何が面白くてあんな顔をしているかと怪むことだろう。
 顔を洗いに出ている間に、女中が手早く蚊※[#「※」は「巾+廚」、第4水準2−12−1、116−10]を畳《たた》んで床を上げている。そこを通り抜けて、唐紙を開けると、居間である。
 机が二つ九十度の角を形づくるように据えて、その前に座布団が鋪《し》いてある。そこへ据わって、マッチを擦って、朝日を一本飲む。
 木村は為事《しごと》をするのに、差当りしなくてはならない事と、暇のある度にする事とを別けている。一つの机の上を綺麗に空虚にして置いて、その上へその折々の急ぐ為事を持って行く。そしてその急ぐ為事が片付くと、すぐに今一つの机の上に載せてある物をそのあとへ持ち出す。この載せてある物はいつも多い。堆《うずたか》く積んである。それは緩急によって畳《かさ》ねて、比較的急ぐものを上にして置くのである。
 木村は座布団の側にある日出《ひので》新聞を取り上げて、空虚にしてある机の上に広げて、七面の処を開ける。文芸欄のある処である。
 朝日の灰の翻《こぼ》れるのを、机の向うへ吹き落しながら読む。顔はやはり晴々としている。
 唐紙のあっちからは、はたきと箒《ほうき》との音が劇《はげ》しく聞える。女中が急いで寝間を掃除しているのである。はたきの音が殊に劇しいので、木村は度々小言を言ったが、一日|位《くらい》直っても、また元の通りになる。はたきに附けてある紙ではたかずに、柄の先きではたくのである。木村はこれを「本能的掃除」と名づけた。鳩《はと》の卵を抱いているとき、卵と白墨の角を※[#「※」は「刈」の「メ」に代えて「元」、第3水準1−14−60、117‐7]《おと》したのと取り換えて置くと、やはりその白墨を抱いている。目的は余所《よそ》になって、手段だけが実行せられる。塵《ちり》を取るためとは思わずに、はたくためにはたくのである。
 尤《もっと》もこの女中は、本能的掃除をしても、「舌の戦《そよ》ぎ」をしても、活溌で間に合うので、木村は満足している。舌の戦ぎというのは、ロオマンチック時代のある小説家の云った事で、女中が主人の出た迹《あと》で、近所をしゃべり廻るのを謂《い》うのである。
 木村は何か読んでしまって、一寸《ちょっと》顔を蹙《しか》めた。大抵いつも新聞を置くときは、極《ごく》apathique《アパチック》な表情をするか、そうでなければ、顔を蹙めるのである。書いてあるのは毒にも薬にもならないような事であるか、そうでなければ、木村が不公平だと感ずるような事であるからである。そんなら読まなくても好さそうなものであるが、やはり読む。読んで気のない顔をしたり、一寸顔を蹙めたりして、すぐにまた晴々とした顔に戻るのである。
 木村は文学者である。
 役所では人の手間取のような、精神のないような、附けたりのような為事をしていて、もう頭が禿《は》げ掛かっても、まだ一向幅が利かないのだが、文学者としては多少人に知られている。ろくな物も書いていないのに、人に知られている。啻《ただ》に知られているばかりではない。一旦《いったん》人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へ戻されて、文学者として復活している。手数の掛かった履歴である。
 木村が文芸欄を読んで不公平を感ずるのが、自利的であって、毀《そし》られれば腹を立て、褒められれば喜ぶのだと云ったら、それは冤罪《えんざい》だろう。我が事、人の事と言わず、くだらない物が讃《ほ》めてあったり、面白い物がけなしてあったりするのを見て、不公平を感ずるのである。勿論《もちろん》自分が引合に出されている時には、一層切実に感ずるには違ない。
 ルウズウェルトは「不公平と見たら、戦え」と世界中を説法して歩いている。木村はなぜ戦わないだろうか。実は木村も前半生では盛んに戦ったのである。しかしその頃から役人をしているので、議論をすれば著作が出来なかった。復活してからは、下手ながらに著作をしているので、議論なんぞは出来ないのである。
 その日の文芸欄にはこんな事が書いてあった。
「文芸には情調というものがある。情調はsituation《シチュアシヨン》の上に成り立つ。しかしindefinissable[#「de」の「e」はアクサン(´)付き]《アンデフィニッサアブル》なものである。木村の関係している雑誌に出ている作品には、どれにも情調がない。木村自己のものにも情調がないようである。」
 約《つづ》めて言えばこれだけである。そして反対に情調のある文芸というものが例で示してあったが、それが一々木村の感服しているものでなかった。中には木村が、立派な作者があんな物を書かなければ好《い》いにと思ったものなんぞが挙げてあった。
 一体書いてある事が、木村には善くは分からない。シチュアシヨンの上に成り立つ情調なんぞと云う詞《ことば》を読んでも、何物をもはっきり考えることが出来ない。木村は随分哲学の本も、芸術を論じた本も読んでいるが、こんな詞を読んでは、何物をもはっきり考えることが出来ない。いかにも文芸には、アンデフィニッサアブルだとも云えば云われそうな、面白い処があるだろう。それは考えられる。しかしシチュアシヨンとはなんだろう。昔からドラアムやなんぞで、人物を時と所とに配り附けた上に出来るものを言うではないか。ヘルマン・バアルが旧い文芸の覗《ねら》い処としている、急劇で、豊富で、変化のある行為の緊張なんというものと、差別はないではないか。そんなものの上に限って成り立つというのが、木村には分からないのである。
 木村はさ程自信の強い男でもないが、その分からないのを、自分の頭の悪いせいだとは思わなかった。実は反対に記者のために頗《すこぶ》る気の毒な、失敬な事を考えた。情調のある作品として挙げてある例を見て、一層失敬な事を考えた。
 木村の蹙めた顔はすぐに晴々としてしまった。そして一人者のなんでも整頓《せいとん》する癖で、新聞を丁寧に畳んで、居間の縁側の隅に出して置いた。こうして置けば、女中がランプの掃除に使って、余って不用になると、屑屋《くずや》に売るのである。
 これは長々とは書いたが、実際二三分間の出来事である。朝日を一本飲む間の出来事である。
 朝日の吸殻《すいがら》を、灰皿に代用している石決明貝《あわびがい》に棄てると同時に、木村は何やら思い附いたという風で、独笑《ひとりわらい》をして、側の机に十冊ばかり積み上げてあるmanuscrits《マニュスクリイ》らしいものを一抱きに抱いて、それを用箪笥《ようだんす》の上に運んだ。
 それは日出新聞社から頼まれている応募脚本であった。
 日出新聞社が懸賞で脚本を募ったとき、木村は選者になった。木村は息も衝《つ》けない程用事を持っている。応募脚本を読んでいる時間はない。そんな時間を拵《こしら》えるとすれば、それは烟草休《たばこやすみ》の暇をそれに使う外はない。
 烟草休には誰《たれ》も不愉快な事をしたくはない。応募脚本なんぞには、面白いと思って読むようなものは、十読んで一つもあるかないかである。
 それを読もうと受け合ったのは、頼まれて不精々々《ふしょうぶしょう》に受け合ったのである。
 木村は日出新聞の三面で、度々悪口を書かれている。いつでも「木村先生一派の風俗壊乱」という詞が使ってある。中にも西洋の誰やらの脚本をある劇場で興行するのに、木村の訳本を使った時にこのお極《きま》りの悪口が書いてあった。それがどんな脚本かと云うと、censure《サンシュウル》の可笑《おか》しい程厳しいウィインやベルリンで、書籍としての発行を許しているばかりではない、舞台での興行を平気でさせている、頗る甘い脚本であった。
 しかしそれは三面記者の書いた事である。木村は新聞社の事情には※[#「※」は「目」+「薨」の「死」に代えて「目」」、121‐8]《くら》いが、新聞社の芸術上の意見が三面にまで行き渡っていないのを怪みはしない。
 今読んだのはそれとは違う。文芸欄に、縦令《たとい》個人の署名はしてあっても、何のことわりがきもなしに載せてある説は、政治上の社説と同じようなもので、社の芸術観が出ているものと見て好《よ》かろう。そこで木村の書くものにも情調がない、木村の選択に与《あずか》っている雑誌の作品にも情調がないと云うのは、木村に文芸が分からないと云うのである。文芸の分からないものに、なんで脚本を選ばせるのだろう。情調のない脚本が当選したら、どうするだろう。そんな事をして、応募した作者に済むか。作者にも済むまいが、こっちへも済むまいと、木村は思った。
 木村は悪い意味でジレッタントだと云われているだけに、そんな目に逢《あ》って、面白くもない物を読まないでも、生活していられる。兎《と》に角《かく》この一山《ひとやま》を退治ることは当分御免を蒙《こうむ》りたいと思って、用箪笥の上へ移したのである。
 書いたら長くなったが、これは一秒時間の事である。
 隣の間では、本能的掃除の音が歇《や》んで、唐紙が開いた。膳《ぜん》が出た。
 木村は根芋の這入《はい》っている味噌汁《みそしる》で朝飯を食った。
 食ってしまって、茶を一杯飲むと、背中に汗がにじむ。やはり夏は夏だと、木村は思った。
 木村は洋服に着換えて、封を切らない朝日を一つ隠しに入れて玄関に出た。そこには弁当と蝙蝠傘《こうもりがさ》とが置いてある。沓《くつ》も磨いてある。
 木村は傘をさして、てくてく出掛けた。停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶《あいさつ》をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶などをするものと、冷澹《れいたん》で知らない顔をしているものとがある。敵対の感じを持っているものはないらしい。
 そこで木村はその挨拶をする人は、どんな心持でいるだろうかと推察して見る。先ず小説なぞを書くものは変人だとは
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