イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になって厭《あ》きるだろう。今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はあるのである。
この為事を罷めたあとで、著作生活の単調を破るにはどうしよう。それは社交もある。旅もある。しかしそれには金がいる。人の魚を釣るのを見ているような態度で、交際社会に臨みたくはない。ゴルキイのようなvagabondage《ワガボンダアジュ》をして愉快を感じるには、ロシア人のような遺伝でもなくては駄目《だめ》らしい。やはりけちな役人の方が好いかも知れないと思って見る。そしてそう思うのが、別に絶望のような苦しい感じを伴うわけでもないのである。
ある時は空想がいよいよ放縦になって、戦争なんぞの夢も見る。喇叭は進撃の譜を奏する。高く※[#「※」は「上が敬、下が手」、第3水準1−84−92、128−5]《かか》げた旗を望んで駈歩をするのは、さぞ爽快《そうかい》だろうと思って見る。木村は病気というものをしたことがないが、小男で痩《や》せているので、徴兵に取られなかった。それで戦争に行ったことはない。しかし人の話に、壮烈な進撃とは云っても、実は土嚢《どのう》を翳《かざ》して匍匐《ほふく》して行くこともあると聞いているのを思い出す。そして多少の興味を殺《そ》がれる。自分だってその境に身を置いたら、土嚢を翳して匍匐することは辞せない。しかし壮烈だとか、爽快だとかいう想像は薄らぐ。それから縦《たと》い戦争に行くことが出来ても、輜重《しちょう》に編入せられて、運搬をさせられるかも知れないと思って見る。自分だって車の前に立たせられたら、挽《ひ》きもしよう。後に立たせられたら、推《お》しもしよう。しかし壮烈や爽快とは一層縁遠くなると思うのである。
ある時は航海の夢も見る。屋の如き浪を凌《しの》いで、大洋を渡ったら、愉快だろう。地極の氷の上に国旗を立てるのも、愉快だろうと思って見る。しかしそれにもやはり分業があって、蒸汽機関の火を焚《た》かせられるかも知れないと思うと、enthousiasme《アンツウジアスム》の夢が醒めてしまう。
木村は為事が一つ片附いたので、その一括の書類を机の向うに押し遣って、高い山からまた一括の書類を卸した。初のは半紙の罫紙《けいし》であったが、こん度のは紫板《むらさきばん》の西洋紙である。手の平にべたりと食っ附く。丁度|物干竿《ものほしざお》と一しょに蛞蝓《なめくじ》を掴《つか》んだような心持である。
この時までに五六人の同僚が次第に出て来て、いつか机が皆|塞《ふさ》がっていた。八時の鐸《たく》が鳴って暫くすると、課長が出た。
木村は課長がまだ腰を掛けないうちに、赤札の附いた書類を持って行って、少し隔たった処に立って、課長のゆっくり書類をportefeuille《ポルトフョイユ》から出して、硯箱《すずりばこ》の蓋《ふた》を取って、墨を磨《す》るのを見ている。墨を磨ってしまって、偶然のようにこっちへ向く。木村よりは三つ四つ歳の少い法学博士で、目附鼻附の緊《し》まった、余地の少い、敏捷《びんしょう》らしい顔に、金縁の目金を掛けている。
「昨日お命じの事件を」と云いさして、書類を出す。課長は受け取って、ざっと読んで見て、「これで好い」と云った。
木村は重荷を卸したような心持をして、自分の席に帰った。一度出して通過しない書類は、なかなか二度目位で滞りなく通過するものではない。三度も四度も直させられる。そのうちには向うでも種々に考えて見るので、最初云った事とは多少違って来る。とうとう手が附けられなくなってしまう。それで一度で通過するのを喜ぶのである。
席に帰って見ると、茶が来ている。八時に出勤したとき一杯と、午後勤務のあるときは三時頃に一杯とは、黙っていても、給仕が持って来てくれる。色が附いているだけで、味のない茶である。飲んでしまうと、茶碗の底に滓《かす》が沢山|淀《よど》んでいる。木村は茶を飲んでしまうと、相変らずゆっくり構えて、絶間なくこつこつと為事《しごと》をする。低い方の山の書類の処理は、折々帳簿を出して照らし合せて見ることがあるばかりで、ぐんぐんはかが行く。三件も四件も烟草休なしに済ましてしまうことがある。済んだのは、検印をして、給仕に持たせて、それぞれ廻す先へ廻す。書類中には直ぐに課長の処へ持って行くのもある。
その間には新しい書類が廻って来る。赤札のは直ぐに取り扱う。その外はどの山かの下へ入れる。電報は大抵赤札と同じようにするのである。
為事をしているうちに、急に暑くなったので、ふいと向うの窓を見る
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